何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

意味のないこと

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は本を読みながら別のことを考える時がある。その後予定される食事や移動、出先のことを考えたり、はたまた一週間後のことを思い浮かべることがある。こういったことは、だいたい意味のないことで溢れていて、決まってページを繰る手が進んでいない。別のことを考えているから当たり前だ。それでふと「ああ、まだここを読んでいたのね」と、我に返って気づく。そんな前触れのない思考の錯綜があった本の箇所は、案外頭に残っている。なぜか。そして、なぜかそのページの端は、三角に折られている。なぜだ。私はこの意味のないできごとについて、なぜだろうと去年あたりから考えているけれど、うまく答えを見つけられない。先にも言ったけれど、これらは多分、何の意味もないことなんだろう。たちは日常において、何かにつけて意味を見出そうとし、文脈の導線を探そうとする。その導線がどんな色をしているのか気になって仕方がないのだ。たとえば(例が悪いけれど思いついたから書くしかない)<食材をそろえる、切る、煮る、食べる、片づける、捨てる、洗う>。巻き戻すと、<買い出しにでる、お金を払う、それを運ぶ>。飛んで、<洗う>の後には、また次の食事のことを考える。<次のことを考える>のが、大切だと自分なりに意味を見出したのは、他に理由はない、一人暮らしから得たスキルだと思っている。私たちは食べることひとつ考えただけでも、ざっとこれくらいの作業を要する。私は別に「大変」だとか「楽しい」だとかここでは言えない。ただ、自分なりに意味のない作業を繰り返すことで、私たちの日常が成立することだけを知ることができる。あえてここで言えるのは、物事は、純度の高い湧水のように、躊躇いもなくコンコンと湧いてくるわけではないということだ。さての話に戻る。先月、内田樹の『街場の文体論』を中古を買った。読み進めると、本の端さきが随所で丁寧な三角に折られていることに気付いた。これに強い既視感を覚えながらも、「ここ読んだかな」と思案し、急いで捲りながら似たように折られたページを確認する。どうやら自分で折ったわけではないらしい。この本は、図書館で単行本を借り、何度もマーキングしたいと思って、やむなく文庫本を中古で買ったのだった。私はこのできごとに対して、かつての持ち主がつけた足跡をそっと辿るのも悪くないなと思った。何故かというと、私はこの瞬間に、素知らぬ誰かと何か*1を共有することができたからである。これも、意味を見い出す作業に数えられるのだろうか?

*1:少なからずおもしろいと思ってマーキングしたと思われる箇所を