何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

バス

 

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ここ五日ほど、センター試験関連で学校自体が休みになったので、家にいることが多かった。そこで〔トレーニング→食事→テレビ→読書→ブログ→睡眠〕みたいな流れが出来てしまった。バッと本を買ってみたり、懲りずに本をたんまりと市立図書館で借りてみたり、結局のところ本に囲まれている。


テレビはニュースと録りためられた朝ドラが中心。それと国会中継が最近やっていて、大学生としてちょっとだけ関心を持って視てる。議員さんは議員さんに話すとき「お手元の資料をご覧ください」と言い、僕たち視聴者に向かっては懇切丁寧なーしかしとても細やかな文字と線で作られたー「ボード」が用意されている。あの場で議論されたり、説明責任を負わされたりすることのほとんどは「国民に向けて発信されているもの」なんだなとつくづく思わせられる。でも「国会」という物体を僕らが認知したとき、あまりいい感じがしないのはなんでだろう。意味のなさないであろう野次と怒号が飛び交っているをすぐに想起する。それは、そこだけをマスコミがいつも取り立てているからだろうか。もっともっと通常国会の運営から報道すべきだと思う。

 

それだけじゃなくて、興味を示さない僕らにも責任はあるんだろうけど。安倍内閣の支持率が上がったという報道をどこかで見たが、それも実際のところ僕ら自身よくわかっていない。

 

 

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先日、バスが横転し死者を多く出す悲惨な事故が起きた。既に「軽井沢スキーバス事故」と名付けられているその事故は、とても他人ごとには思えない。理由としては、①死者のすべてが同じ年のくらいの大学生であったことと、②僕自身がよく高速バスを利用するもののひとりであるためだ。ある報道では、早稲田大学の女子学生の写真がFacebookから引用され使われていた。法政大学の学生も2名ほど映されていた。


どうしても辛い。その、なんというか、彼らは同じく必死になって学生生活を送っていた。留学も経験していたという。帰国後、就職活動をしてキチンと内定を貰った。だが、その彼らの未来は事実上絶たれてしまった。恨んでも恨みきれない。僕はその報道を視聴しただけで、その人の人生に触れることはできない。ただ混乱し何かを受け取った。この事件には、今後あってはならない、僕自身の身には降りかかってほしくないということばでは片づけられないほど重要な何かが含まれてる。また、重く受け止めて、いつどこで何があるかわからないという認識を深めるべきだと強く思った。

 

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自分の通っていた高校の陸上競技部は、顧問の先生の御意向で年始四日~六日くらいで東京に合宿しにいく。出発がとても早くて前日の夜は寝られなかったのを覚えている。用意されたバスに乗り込んで始めの15分は興奮騒ぐけど、しだいに落ち着き、みな寝静まる。僕は、あるひとりの同期の彼と一番後ろの座席にいた。僕はバスに揺られながら「寝れないな」と思っていたけれど、いつのまにかとても短い時間眠っていた。起きて彼に目をやると、カーテンを少しだけ捲り窓の外をぼんやりと眺めていた。「寝ないのか?」と聞くと。「こんなときに寝れないさ。寝ながら死んだりしたくないからね。」と彼は冷たく言ってこたえた。いつも冷たい調子なのでそれには慣れていたけど、それ以上になにか冷たい何かを受け取った。それを4年ほど経ったいまでも思い出す。年始に仙台から大宮に向かってバスに乗った時もそうだった。バスに乗り込み手荷物を頭上の棚に上げているとき強く思い起こした。それが原因で、高速バスであまり寝られないのかもしれない。

 

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報道は真実のみを語らない、というと語弊があるけど、彼らは何らかの物語性を付加してないと気が済まないと感じる。そしてそれを僕たちに差し渡す。「視聴者」に対して一方的に差し渡す。今回のバスの一件も、一つの「物語」として加工され扱われた。何が良くて何が悪いかなんて、誰もが分かっていること。酷い話だと同情することは簡単だけど、それ以外の何かに違和感を感じている僕はおかしいか。その「何か」が分からないでいて、ここのところ「報道」の在り方に対する訝しみがとまらない。