何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

東京タワー

 
湯船に浸かっていると、取り付けてある窓の外から静かな音楽が聞こえてきた。その音は少しくすんで聴こえ、話し声も聞こえたので、おそらくすぐ傍に駐めている車の中から流れているものなんだろう。珍しく、その音楽は心地よく聞こえてるのでもう少し聴きたいなと思った。嫌なズンズン感を持っていなくて、しばらくのうち読んでいる本のことを忘れてしまっていた。
 
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あらためて、江國香織の東京タワーを読んでいる。
裏に書かれているあらすじと本の表紙の画に惹かれ、先々月に古本屋で即買したものだった。
 

 

東京タワー (新潮文庫)

東京タワー (新潮文庫)

 

 

 
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恋愛ものを読むとき、こんな恋愛をいつかしてみたいなと何度も何度も思うけど、大抵それは叶わないし非現実的なものばっかりだ。でもこの本にはどことなく未来が含まれてある。一見起こり得ないなと思わせるけどそれ以上のあったらいいな感が凄い。素敵で、ゆるくて、嫌な感じを押し付けてこない。実際に本の内容は「社会的に」はあってはならないことなのかも知れないけれど、それ以上に惹きつける魅力があると思っている。村上春樹に少し似ていると感じているその江國ワールドに、見事にはまり込んだ。
 
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夜行バスの所為でとても疲れていた。正月は飲んだくれて、過去最高に飲んだ。でも運動は必要最低限していたし、たくさん食べるって言ったってもう21歳。競技者としてタイミングとか量とか、そこらへんの管理は徹底しようと思っていた。また、たくさん飲むこと(飲まされること)は分かっていたので、ワクワク感と一緒に、心の準備はしていた。冬期練習の間で増えてきた体重は、年の暮れには73.6キロまで達していた。練習期間に入る前までは、70から71キロを行ったり来たりしていた位なので、順調に増加している。男の場合、身体の様々なキャパシティを大きくしていくうえで、過度に減っていくよりは増える方がましなわけだ。今日、チームの友達とどれくらい増えたかという話になって、彼は72~3が77キロくらいまで一時増えたと言っていた。少しその言葉に慄いた。帰省期間中は体重測定ができなかったので、今日の午後、恐るおそるその緑色した簡易的な機械に身体を預けてみると、「72.6」という数字が出た。思いのほか増えておらず、いやむしろマイナスなわけで、どういう訳か安堵した。
 
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つねづね、疲れた時は素直に休もうと思っている。目を閉じるか、湯船につかるか。さすがに昼寝を長引かせてしまっていたし、課題も残っていて寝れないと判断して、久しぶりに自分の部屋の浴槽にお湯をはった。ずっと「読んでは止め、読んでは止め」していた『東京タワー』のページを開き読んでいくと、やっぱり心地よい高揚感と幸福感が身を包んでくれた。それだけでしあわせだった。
 

大学生の透は恋の極みにいた。年上の詩史と過ごす甘くゆるやかなひと時、世界はみちたりていた。恋はするものじゃなく、落ちるものだ。透はそれを詩史に教わった。 ・・・ 『東京タワー』あらすじより抜粋

 

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誰でもそうかもしれないけれど、自分はあらすじをキチンと吟味する方。あらすじに目を通した後、初めの文の書き出しを読み、いろいろ照らし合わせていって、想像していけるか、この世界に入っていけるかを「確認」する。大体、話題性とかファーストインパクトによるけれど、そうでもなかったりする自分の知らない本や物語は、自分から見つけ出したいという気持ちが強い。本をなんでもかんでも「カートに入れる」作業をできる分際ではないので、それもまた継続している理由として大きいかもしれない。インターネットでも結構調べたりする方だけど、自分が買って読みワイワイと騒ぎ、さぁアウトプットしようかと思ったら、案外話題の本だったというケースも多くある。有川浩さんの作品なんかはそうで、てっきり自分で見つけた感が結構あったんだけど全然違っていた。ただ、自分が無知なだけだった。それくらい知られている作品は息も長いし、誰もが共感できたりするので、嬉しいっちゃあ嬉しいこと。

 

植物図鑑 (幻冬舎文庫)

植物図鑑 (幻冬舎文庫)

 
レインツリーの国 (新潮文庫)

レインツリーの国 (新潮文庫)

 
塩の街 (角川文庫)

塩の街 (角川文庫)

 
阪急電車 (幻冬舎文庫)

阪急電車 (幻冬舎文庫)

 

 

 

 

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本の趣味が合うことや話の馬が合うことって、すでに僕らから発している一次的な情報が成立していないわけで、大きく見て「社会の構造」にスッポリと取り込まれていることが多い。でも、そんなことを考えずに生きていれば、楽しく幸せに「生きれるであろう」ということも分かっている。だから社会学を学んでいると、時に強く寂しいような感情を抱く。また、いろんな面倒くさいことを考えずに生きていれば、日常的に良くも悪くも自分の身に降りかかること、起きることの殆どを「偶然」で片づけることができる。誰とどこで会うとか、話をするとかそこに完璧なシナリオはないわけで、あったらあったで気持ちがよくない。プランとは別にして、出来すぎたシナリオはあまり人を愉快にはさせないと思う。そうこうして、その「偶然」性はどこかハッピーな要素を多分に含んでいると思うのだけど、そのハッピーさとは、どこからやってくるものなんだろう。どこからやってきて、どこへ収められるのだろう。

 

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何かを好きだと思う感情も、気持ちも、どこからやってきてどこへ「消えて」いくのだろう。その「好き」は偶然なものか、はたまた必然なものか、およそ1年前、2年次の必修になっている「哲学通論」の講義をふと思い出す。訳も分からず「再帰的近代」や、「九鬼周三」、ハイデガーの「存在と時間」、「ニヒリズム」や「宿命論」なんかという言葉を耳していた。概ね、テーマは「偶然と必然」についてだった。一見若そうなのに、頭の毛が薄くなっている先生は、皆からの評判はあまりよくなかったけれど、少なくとも僕は好きだった。少し言葉は悪いけど、無為とも思えるその時間に、答えの出せない答えを出すためにひたすら時間をかける。押し付けずに説いてくる。哲学は学ぶべきだという熱い何かを僕は受け取った。少しだけ、もっとまじめに話を聞いとけばよかったなって思う。いつも後悔するばかり。

 

 

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当分会っていない「声」と「文字」だけをうけとっている人を想うことは、とてもつらい。何から何まで、「背景」ばかり気にしていたら物事は進まないと思っている。でもそれは、あくまで、僕からの目線であって、向こうもそうみているとは限らない。。