何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

あけましておめでとうございます

 
だいぶ遅くなりましたが、
あけましておめでとうございます。
 
 
親戚と飲むお酒は美味しいなぁと思う成人2年目でした。
 
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新年そうそうあまり苦いことは言いたくないのですが、昨日からやってる「箱根駅伝」について一言。。。
 
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箱根駅伝の過度なドラマ化はやめませんか。映す側も、観る側も、ドラマ化されるものに組み込まれるのは楽しいし気持ちがよくて仕方ないのはわかる。解るけども。そのロジックに組み込まれることによって、彼らは「参加している証」を得ることができる。いま、みんながみんな当事者になりたくて仕方ない、メガイベントに混ざりたくて仕方ない。
 
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つまるところ、あのビッグイベントが催されることによって、国がお金が動いている。どこにどうとか、分からないくらいに莫大な数のマネーが動いている。
 
極限までスポーツに近づけようとした結果、スポーツらしくない違和感の残る二次的なスポーツが出来上がった。

よくよく考えてみて欲しい。マラソンや、今回の駅伝、映され方はどうなっているか。もう既に、観る人の感覚は、 その違和感に対し気づかないほどに侵食されてしまっている。

商品化されたスポーツ、消費されるスポーツは輝かしくて素晴らしくて、誰もが欲しくなってしまう。だってかっこいいもの。悲劇のヒーローが復活して活躍しましたってったら、視聴者にとっては共感力満点の、スーパーお涙頂戴ものに様変わりしてしまう。隆々と盛り上がった筋肉は、それだけ人々を魅了する。

 
しかし一方で、一時的に酷使された選手の身体はカンタンには戻らない。身体もだし、心もだ。本当にカンタンには戻らない。ビジネス性やエンターテインメント性とかいろいろあるけど、どんな分野においてでも本来の目的にあったようなパフォーマンスの意味を履き違えているのかな。一体、誰が主人公だっていうんだ。
 
時代は流れる、いろんなことは変わっていく。目には見えないものが永続的に残っていくとき、一般的な制度とかルールとか規範とか風潮はどんどんと変わっていく。果たして、僕らの先輩にあたる箱根駅伝を創始した偉大な先人たちは、こういったビッグイベントの在り方を夢見ていたのでしょうか。
 
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箱根駅伝出場者全員の脚が心配でならない2016年の1月3日でした。そんな変なことを考えていたらサンガニチが終わってた。
 
 
さて今年も、大体テキトーに、時に変なくらい丁寧に、やっていきたいと思います。どうか今年も1年、宜しくお願い致します。
 
 


追記。
画像をたくさん陳列しましたが、僕にとってひとつひとつに意味のあるものですので時間のある時にでも追って紹介していこうと思います。