「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

へや

私は台所が好きだ。いっけん、無機質な空間だけど、好きだ。包丁がまな板をたたく音、人の通過で響き渡る足音、冷蔵庫など家電製品のトビラの開閉、食材や調味料の陳列。これらが、無機質な空間に多様な彩りを与えてくれる。

(最近よく手に取る)内田樹は、(実際のファンであると公言する)村上さんへの書評や考察において、調理をとおした食事の描写が詳細に描かれている点にポイントを置いた。「食」は人間の根源的な営みであるのは言わなくてもわかる。当たり前な「根源的営為」を細かく、美味しそうに、なおかつ自分もその行為にうつりたくなるような描写を手掛けるのが村上春樹だ、とご機嫌よろしく評価する。

居間ともリビングともいえない、日常的作業場兼、寝室兼、着脱衣場である空間を、私はどう表現したらいいだろう。およそ3年間過ごしたこの部屋を、この一言で言い表せない。基本的に、食器棚の位置は変わっていない。だが中のスペースは本が半分占めるようになった。テレビやベッドの位置も変わっていない。もちろん、押し入れの扉も変化していない。「本がたくさん増えて、部屋は狭くなった。」と言いたいところだが、物は増える一方で意外と空きスペースが発生している。小机やハンガーラックが入ったにもかかわらず。さらに書類や本、山積みになった新聞のスクラップ記事は増加の一途をたどっているのに、不思議である。

私は、キッチンという空間は、調理することに限定される空間ではない、と思っている。キッチンでは作業ができる。私は何かものを書いたり、物を読んだりする。映像を見たりもできる。割合にして、5:4:1といったところだろうか。ぼんやりして頭の整理がつかない時に、キッチンにいく。「キッチン」と先の「何とも表現しずらい空間」の空気はまるで違う。一つの扉で隔てているだけだなのに。なぜだろう。3年間居座ってみて、これといった答えが出ていない。そこで次のような仮説ともいえない案を立ててみた。「キッチン」は生きているからかもしれない。無機質のように見えて、きわめて有機質である。私は吉本ばななの『キッチン』を読んでから、なおさら好きになった。「キッチン」をこのむ女性が愛する祖母との死別から、「キッチン」との関わりを契機に生まれ変わるような本である。(これは、復活や再起といった言葉は適さないと思う。スーパー・ポジティブではないけれど、、、そういうのをどう表現できるだろう。無力さを痛感している)あまり登場人物は多くない。50ページ程度なのですぐに読み通せる。

 

やっぱり、好きなことについて書くことが難しいと実感した次第です。

 

 

キッチン (角川文庫)

キッチン (角川文庫)