何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

本当に好きなものについて書けない②

気合を入れていざ書かん、と思うと書けないのが常である。

 

卒論を提出してから、おおよその時間を相方と過ごしてみてわかったのは「時間はないけどある」ということだ。時間は進む、刻一刻と進む。悲しいほどに時間は止まっちゃくれない。それが自然の摂理なのだ。楽しい時間は早く進み、その反対に楽しくない時間は遅く進んでいるように感じられり。

 

そういえば「この頃の若者はすぐ【逆に~】といいたがる」みたいな、とある老人のコメントを(テレビか何かで)聞いてから私は「逆に~」を使わなくなった。なるべく「反対に」を使っている。「反対に」が正しいのかわからないけど、私の理性はそうさせる。

 

いや、そんなことはどうだっていい。

「いや、そんなことはどうだっていい。」は高校の厳しい古典教師が使っていた、話題転換、閑話休題の常套句であり、それを気に入って笑っているのは、私だけだった。

その古典の教員は学生結婚の経験者で慶応卒だった。その先生の先生が辞書編纂の大御所だったことから、卒業と同時にその編纂のお手伝いをしていた。という話を、その古典教師ではない先生から遠巻きに聞いたことがある。

 

古典教師はその話を直接口にしたことがなかったが、たぶんホントなのだろう。私の母校は、頭は良くなければ悪すぎる学校でもなかったが、その古典教師の出題する定期テストの問題はとびっきり難しく、つねに平均点は30点を下回っていた。

 

それと似たような教科が中学の時にもあった。私の知るところ東北大に進んだ友人が二人いて、控えめな方は87点を取ったが、欲張りな方は45点だった。板挟みになるところにいた私はいつもお互いの顔色を窺っていた。自分の点数は覚えていない。

 

神田にある岩波書店にいくとそこはあまりに厳かな雰囲気で、5,6歩で踵を返した。三省堂が丁度よい。

 

以前、旧制高校の調べものをしていた時、岩波書店の創業者である岩波茂雄のエピソードを見つけた。彼は、長野県の生まれで当時の*1諏訪実科中学校に通っていたが、在校当時に父が死去。母と暮らしていたが、上京し日本中学校に入学。名前の通りそこは国粋主義に傾き、上位にあった旧制一高に多くの進学者を輩出した。

 

岩波は(たしか)一浪してその1名に加わった。その浪人時代、岩波は『代表的日本人』で知られる内村鑑三に陶酔した。私の中では五千円札で『Bushido』の著者・新渡戸稲造と、旧制一高不敬事件で騒ぎになった『代表的日本人』の著者・内村鑑三とが混ざる。

 

どちらもクリスチャンでありながら、「武士道」つまりは想像的日本人の精神を前面に押し出した。卒論執筆時には知らなかったが、Wikiによると、彼らは札幌農学校*2時代の同期であった。それに由来するのかもしれない。

 

岩波は「中堅会」という、一言でいえば「寮自治組織」的なものに入っていた。その「中堅会」の体質は、だいぶバンカラで荒々しかった。彼は中堅会に入る傍らで、当時隆盛を極めていた漕艇(ボート)部に所属した。

 

当時、学生スポーツにおいて熱狂的スペクタクルを極めたのは、早慶や六大学に代表される「野球」と思われがちであるがそうではなかった。ボート熱は、当時のバンカラな学生の気風とは少し路線を違えて「ハイカラ」なものとして扱われ、観衆やプレイヤーに楽しまれた。そこで対照的に描かれたのは、野球における「バンカラ」さだった。

 

その両者(現在で言うところ)のマイナー/メジャーの構図は、少なくとも当時は反転していたわけであるが、それも漕艇競技への過度な熱狂に対する校長の警告やバッシングに注目が集まり、漕艇競技の地位は凋落した。

 

そのさなかに居合わせた熱狂的運動部員の岩波は、やがて哲学的志向に重きを置く煩悶瞑想的な学生へとシフトしていった。

詳しくは手元に資料がないのだが、一高時代の同級、藤村操の自殺したことから岩波自身が哲学書を携え、山小屋に籠り「死」について真剣に考えた(と言われている)。

またその当時、岩波や藤村の英語教師だったのが、かの千円札・夏目漱石である。藤村自殺の一因には、漱石による叱責ではないかと言われている。また、藤村の自殺事件によって漱石は神経衰弱になったのではないか、と言われている。

 

NHKドラマ「夏目漱石の妻」で漱石役を演じるのが長谷川博己というだけで、私はそのドラマを視たが、漱石の荒れっぷりはすごかった。原話は知らないが、漱石の妻はお嬢様で、父が貴族院などの偉い人だったが、やがて失脚し地位と金を失った。

 

印象的なシーンがある。熊本にある旧制五高から東京に戻った漱石の下に漱石の義父がやってきて金を貸してほしいとせがむ。だが、それを漱石は断る。(その代りに妻の弟には、援助をくれてやっていた)。

 

哲学青年の岩波は、母の頼みからなんとか下山したが、山小屋に籠ったことにより(やっとの思いで入学した)旧制一高から除名されてしまった。だが、やがて再起し、1905年に東京帝大哲学科選科に入学した。修了後は(理由はいまいち分からないないが)神田高等女学校に奉職し、やむなく退職した。

 

「自信を喪失し…」とWikiにはあるが、現在の神田女学園HPには「数多くの教科を担当する名物教師」と評されている。

その後、やっと、私たちの待ちに待った「岩波書店」で「岩波文庫」を手掛ける初代古本屋店主・創業者「岩波茂雄」になるのだが、もう疲れたので言いたいことだけ書く。

 

(となると、今までのは言いたいことではなかったのかー、ってなるのだがそうではない、見逃してほしい。)

 

1913年に岩波は古本屋として「岩波書店」を開く。この古本書店がヒットしたのには理由があった。かつての英語教師であった漱石が本を出版するにあたって、合縁奇縁、漱石による提案は「自費で出版するから、そのかわりプロデュースさせてくれ」とのことだった。つまり、金は払うから、編集には口出さず好き勝手に手掛けさせてくれということだ。*3

 

私はこのエピソードを、粋というか、こういった出会いからくるチャンスを得ることに対し「すごい」と唸らざるえない。まさに、運も味方につけたという感じだ。

 

当のドラマでは漱石よりも「妻」がメインにフォーカスされていたが、とはいえ漱石は描かざるを得ない。私が想像していたよりも、彼は破天荒であり、あのドラマを見ただけでは、とてもじゃないが千円札になる人とは思わない。

 

はたして、私たちの思う想像的代表的日本人はどこからどのようにして形成されるのだろう?「メディアの台頭」という問いは、いかにも安っぽい回答である。無論、初等教育に帰するのだけど、、、もっと、本質的なところまで知りたいと思った。青帯の岩波文庫の手触りの良さと言ったら、もう、言葉に表せない。

 

 

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