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ガッキーにみるヒロイン・イメージ ①

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 いやあ、逃げ恥ブームすごいね。ガッキーがヒロインってだけで勝負は初めから決まってたと思ってしまうけど、こればかりはみんなが釘付けになるのもわかる。うんうん。さて唐突だけども、ガッキーをみながら(じっくりと眺めながら)理想のヒロイン像について思い出されるのが何点かあって、ここに置いていきます。少し長くなります。

 2、3年前に放送された「リーガルハイ」にて堺雅人扮する古美門は、新垣結衣扮する部下の黛(まゆずみ)に容赦なく罵声を浴びせる。宇野常寛*1は、中央公論のコラム*2において、以下のようにまとめています。

 

 古美門は黛に対して「"朝ドラの主人公"みたいな奴だな」、「いいかげん朝ドラごっこはやめろ!」などと詰る。このドラマの中で「朝ドラ」という言葉は「優等生的な価値観を振りかざすだけで中身が伴っていない」黛に対して使われる。概ねこのような〈理想のヒロイン像〉および〈ヒロイン・イメージ〉は平成期に作られた、といってよい(時期や作品によって多少は異なるものの)。

 宇野の指摘によると、〈朝ドラのヒロイン〉は「明るくて可愛くて爽やか」で「人から後ろ指を指されない夢」を持ち、「おじいちゃんとおばあちゃんと伝統文化が好き」で「恋にはちょっと鈍感な女の子」。この指摘は、ガッキーこと新垣結衣に据えられた(と言ってよい!)〈朝ドラのヒロイン〉像の輪郭を補強する。ついでに、ネットの記述を参考にしながら補足すると、国民にとって「朝ドラのヒロイン」像は「イマドキありえないようなレトロな正義感を振りかざす」ガールらしい。このくだんについては、そう考えながら朝ドラは見ないけど、言われてみればそうかも…という感じしかしない。とはいえ、朝ドラのメーンはヒロインなので〈ヒロインがいかに可愛いかってこと〉や〈設定する時代の問題を現代社会に投影できるか〉あるいは〈大衆にとって理解に難くないストーリー設定を施せるか〉に準拠するんじゃないか(と思われる)。さて、話の筋をガッキー周辺に戻すと、そのあたりから、私の中でガッキーは「朝ドラには出られない朝ドラのヒロイン」として君臨している。

 

 ここで、もう一つ紹介しておく。2008年公開の「フレフレ少女」では、ガッキー扮する主人公・桃山桃子がおもしろく描かれる。恋に臆病な(というかそもそも3次元には興味がない)文学少女が、野球部のエース(後輩でありならず者)に恋する。野球部マネージャーはダメ、ソフトボール部もダメとなった果てに、桃子は応援団長となり有名私立に転校していってしまったエースを打ち負かす*3。ここでもガッキーは、冴えない「女子高生」から男子よりも根気勝る「団長」へと進化・変貌し大活躍してしまう。

 さてさて、「逃げ恥」に関してはどうだろうか。ドラマは、社会を映す鏡だといつか言ったように、このドラマは現代社会に一石を投じようとする試金石だといえるのではなかろうか。まあまあ、別に話をそんなに大きくしなくても、あんなにキュートでスマート*4で、コミカルでポジティブに描かれる"ヒロイン"は、補助線として用意される「不器用さ」を臆することなく映しだされる。十分すぎる、威力は半端ない。既に、タイトルにあるような「逃げるが恥だが…」という説明機能をもつ主旨によって、主人公*5が何処かの第一線から退却することを許している。ここで、逃げることが正義か悪かといった議論についてはたいへん不毛なので避けたい。いくら私でもそんなことくらい分かっている。

 現実問題において、何かから〈逃れることができない私たち〉に対し、あのドラマは得体の知れない応急手当の方法を投げかけてくれるのではなかろうか「役に立つ」か否かを思考する先で、手に取れる「逃げる」という選択肢は、はたして仕事や社会からなのか、恋愛やプライベートなことからなのか、残念なことに未だ判明しない。だって「逃げ恥」みてないんだもの。失礼しました。ずいぶんと不十分ですが、きょうはこの辺りで。逃げ恥を見てからまた出直します。

*1:何かと大変な評論家

*2:なぜ「朝ドラ」人気は復活したのか

*3:自分らのことしか考えず応援を迷惑と思っている野球部をより本気にさせ、栃木県大会決勝で元エースの転校先と激突。「応援の力」でホームランをお見舞いし、サヨナラ逆転勝利。今まで冷たかった野球部の人間に握手で感謝される

*4:頭脳的意味合いとルックス的意味合い

*5:いじられキャラ