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ただの記録でしかない、

フィクションか何かだと思ってください、

大きく腕を振って歩くことについて考えてたら口が悪くなった

今話題の(なくなったらしいが)健康増進的なページに、こんなことが書いてたら嫌だなと思いながら、そう思いながらも投稿する。


◆T3. さんぽ (となりのトトロ~) 秋山カズ

以下、聴きながらどうぞ。

 

 

 私は何かの名残りなのか、見知らぬ他人の歩き方をよく見てしまう。あの人きれいなだな、とかもったいないな、とか妄想の中で余計なお節介を焼いてしまうのである。*1ふと思うのは、案外人は腕を振って歩かない。街中や、道端、ショッピングセンターやステーション、学校内、私は至るところで歩く人を見かけるが、皆んな他に何かを持っているか引いている、あるいは子どもや恋人、友人と手を繋いだりして腕は塞がれている。

彼らは忙しくしていてどこかに向かっている様子だったり、待ち時間をつぶすためにブラブラしているようにも見てとれる。目的地が定まらないのかもしれない。

 

 私たちに脚がついている限り、それでどこまででも身体を運ぶことができる。全国行脚を知っているだろうか?私たちは当たり前のように、自分の身体に付随している腕を振ることができるが、長時間継続するのが案外むずかしい。むずかしいというのは、簡単に思えるその行為を通常以上の時間継続してみると、その運動を続けるのが思いの外辛くなってくるということだ。

あなたは痩せたいと思い、すぐ走り出してみて長続きしなかった。あるいは食が基本であるといってトマトやバナナしか食べない!と言ってみて長続きしなかった。だがやっぱり基本は運動だといって、ジムに通うも多忙から逃れられず長続きしなかった。あらゆる経験が思い当たると思う。どれも致し方ない事例の数々だけど、実際、私の周りにはこういう人が多い。彼らは決して間違った選択をしている訳ではないが、言っていることとやっている(やろうとしている)ことが、まるで馬車が違うベクトルへ向かって進行するように、やがて中心部が決裂する。そう、いつだって、私たちの心と体は思うようにいかないように出来ていて、自尊心は削られ、やっぱり損したと嘆く。

 

 ここで、そもそも何故私たちは「痩せなければいけない」という思考に陥るかについて考えなければならないが、そうなるととてもじゃないが、いつもの様に言いたいことに到達しない恐れがあるので、別の場所にとっておく。

「痩せたい」と思うのは間違いではない。とはいえ何もしなければ「太っていく」自分の体質を案じて「痩せたい」と思うのは極めて自然で合理的考えだと私は思う。そういった自我から発する「やる気」や「芽」は摘んではいけない。正しいとは言わないが、間違いではない。でも、それにしたってはじめに手を付けないといけないことを忘れていないか?と問いたくなる。さあ、歩こう。童謡の「さんぽ」でもよく言っているではないか。

 

 私は以前、課されたトレーニングの中にダンベルを持って腕振りを60秒、というのがあってこれがよく悩ませた。重さによるが、片腕に持つダンベルの重さが5キロを超えると本当に堪える。血反吐を吐きながら乗り切った。

だがそれを境にして、分かったことがある。人は走るのも歩くのも、そうやって移動する限り、腕を振るということがいかに大事かということだ。すごい抽象的だ。なので、いかに大事か、というのは身をもって体験してほしい。別にダンベルはもたなくていい。いつもより、意識して腕をおおきく振って歩いてみたり、「私は断固歩けない」というなら500mLのペットボトルを両手に持って室内で腕を振るでもいい。それもしたくないと言うなら、これ以上求めないし、無理にすすめない。この記事は読まなかったことにしてください。

周りに変な人と思われたくない、と思うだろう。でも、そのことを知らないあなたの方がずいぶんとオカシイデスヨ、とウインク一つ投げてやればいい。現に、ぴんぴんしてるおじいちゃんおばあちゃんたちは、威勢よく腕を振っている。どこで習ったのか年の功なのか分からないけれど、先人の知恵に学ぶとはこのことだ、と深くうなずくことができる。彼らはきれいなリズムとフォームを心得ている。私もああなりたい。

 

 大事なのは、腕を振っている時どこに負担が掛かるか、を感じること。あまり偉そうなことを言えないが、やってみる価値はあると言えるだろう。

 

 さて、大筋を逸れたが、美しく歩く人は、多少外見がアレでもきれいに見える。心なしか。心を映す鏡である、と思ってしまうんだなあ。「美」は身近にある。

*1:カラダを見ているわけではない。歩き方を見ている