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ただの記録でしかない、

フィクションか何かだと思ってください、

いま「思考の整理学」に学ぶこと

 

 この頃は、いつ何時でも卒論の事を考えてしまう。すなわち、起きた瞬間、本を読む時、朝ドラの録画を見る時、歯を磨く時、ラーメンをすする時…のように挙げだしたらキリがない。しかし、それは良くないらしい。

 

 以下、外山さんの言葉を引用しながら記していく。

 

 思い立ったらメモをする。後にやろうと思ったらやらないのですぐにメモをする。なるべく手帳が良い。その区切りを設けるならば一日に積もったそのメモを見返して、別のノートに書き写す。この時、手帳にある断片的なメモをノートに移植する際、メタ・レベルでの変化が起きる。

   それは、あの時はこう思っていたが、コンテクスト(過去の文脈)から推定するとこのようにも考えられないだろうか、と高次な考察を勝手に付け加えてくれるということ。別に、考察でなくとも断片的なメモを文章に組み立てるだけでその成果はある。そういった繰り返しを経ていく中で、”メモをしたから一旦は忘れてよい”という安心感を得て、あれもこれもと苛まれることを減らしていける。心的ストレスや負担を軽減することが出来るのだ。*1

 つまり小さなおこないからメリハリを付け、忘れる勇気を持って忘れる事や醗酵させる事を意識をしてみようということだ。

 

 

とにかく書いてみる(p134~)

 まとめ、というのは、実際やってみると、なかなか、たいへんな作業であるのが分かる。その面倒さにてこずったことのある人は、だんだん、整理したり、文章にまとめたりすることを敬遠するようになる。そして、ただ、せっせと本を読む。読めば知識は増える。材料はいよいよ多くなるが、それだけ、まとめはいっそうやっかいになる。こうして、たいへんな勉強家でありながらほとんどまとまった仕事を残さないという人ができる。(p134)

  頭の中で、あれこれ考えていても、いっこうに筋道が立たない。混沌としたままである。ことによく調べて、材料がありあまるほどあるというときほど、混乱がいちじるしい。いくらなんでもこのまま書き始めるわけには行かない、もうすこし構想をしっかりしてというのが論文を書こうとする多くの人に共通の気持である。それがまずい。(p135)

 まだまだ書けないと思っているときでも、もう書けると、自分に言いきかす。とにかく書き出すと、書くことはあるものだ。おもしろいのは、書いているうちに、頭の中に筋道が立ってくる。頭の中は立体的な世界になっているらしい。あちらにもこちらにもたくさんのことが同時に自己主張している。収拾すべからず状態という感じは、そこから生じているのである。(p136)

 

 

 二年前にお金を出したこの本も 、何が良いのかわからなくてずっと本棚に立たせたままだった。それは、帯にある「東大京大に選ばれる一冊」みたいな黄金のキャッチコピーがある故に、そしたら凡人である私には簡単に理解できまいと、意気込んでお金を出した時の勢いむなしく卑屈になっていたからだ。

 私は本を手に取るとき、小説でなければこの本は「どの章からでも読めるもの」か「初めから順序立てて読むもの」かを判別する。それは、ーこの頃多いと個人的には思っている、「はじめに」において「本書はどの章からも読むことができます」といった説明を多く目にしたことから、「本はどこから読むべきなのか」を考えるきっかけを得た。

   つまりこのように書いているということは、私は「どこからでも読むことができる本」が好きであり、そうでない本は「敬遠しがち」だった。

   もちろんケースバイケースあるけれど、趣味趣向、好みといった視点から本の読み方を説明する時、これらの事に触れておかなければいけない、と思っている。

 

 この本はどこからでも読むことができる、むしろまばらに読むことが良いと感じている。今となって読むことがある程度可能になったのだが、これをはじめからスラスラ読めたからと言って卒論が書けたわけでもないと思う。それは、ある程度の量のページを繰ってきたからこそ、この本書をみひらいたところに浮かぶ世界があり、その過去がなければあまり面白いものに感じられなかったのではないかなとも思っている。

   つまり、この本はいま読まれるべくして読まれた本であり、学生生活の徒労の果てに置かれてあるべき本だと思う。もっとも上級エリートの東大さんや京大さん、その他の人たちはもっと低い年次から読めなければならない。(笑)

 

 これもいつか書いたと思うのだけど、外山さんは「思考の整理学」において「忘れること」すなわち「忘却」がいかに大切かを語っている。

   それは、詰め込み教育の名残で、何でもかんでも暗記すればよいという風潮が少しでも流れている ー少なくとも私が小中学やってきたころの教育現場においては流れていた、ことで人は何もかもを「忘れてはいけない」生き物になってしまったからだという。*2

 そういった教育を施されてきた私たちは、いかにしてその「忘れたくない精神」から解放されるのかといういち手段をこの本から学ぶことができる。

 

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

思考の整理学 (ちくま文庫)

 

 

*1:何かを継続して行く上でそういった負担から解放されることはなるべく念頭に置いておきたい

*2:それは確かに、約束の時間や期限を「忘れてしまう」ことはいけないことだが、ここではその事を言っているのではない。しかしそれらもスマホをはじめとして第二次的情報の宝庫を手にすることによって少なからず、巡り巡って、人の脳に影響を与えられ続けてきたことにも原因が考えられるが