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ただの記録でしかない、

フィクションか何かだと思ってください、

歩く必要があれば時間の許す限り歩くし、山を登る必要があれば同じく登る

 話すように書くのはむずかしい - 勢いあまって

 ふと立ち止まって見ると、わたしが書いているものって一体何に分類されるのだろう、と。ツイッターとは140字でまとめられるミニブログだ、っていうのをどこかで見ましたが、今ではそれは違うって思う人がほとんどなんじゃないでしょうか。フェイスブックが生活的自慢の形をした日記なのは分かりますが。ここは、本質は「ブログ」なんでしょうが、そういった画一的な分類ではなく ―雑文といってしまえばそれまでなのですが、果たしてエッセイとも呼べない。でもエッセイには強く憧れがあります。日本には見られないと思うのですが、海外では入学試験に「エッセイの執筆」が課せられることがあるらしいです。ただ論理的に物事を考察して報告するだけでは表せないような能力を測られるというのは、従来日本の入学試験制度では示しきれない、そして補えきれないような「運」的要素が強いと感じます。わたし個人は。

 書ける人は書けるのかもしれませんが、わたしのような凡人に至っては、決めたいなという時に思ったような言葉が降りてくるのは滅多にありません。*1まさに「タイミング」そして時の運です。周囲の評価に「面白くないよ」と思われることでも、わたし自身が「楽しくて、画期的だ、今までに見たことない自分を白い画面の中に投影できる」ということは、たとえ微々たる歩幅であっても、進化したような気分にさせられます。どれも時間の無駄じゃんと思われるかもしれませんが、わたしはそういうところで生きています。歩く必要があれば時間の許す限り歩くし、山を登る必要があれば同じく登ります。みんなが外でワイワイやっていることと本質的には同じなのです。多少ハード的な概念が異なるだけであって。そして、水を飲まなければ死んでしまうというのが、人類共通してあてはまるように。

 すこしズレますが、わたしは「空気を吸うように水を飲むように」とまではいかなくとも、一日三膳ご飯を食べるくらいのスパンで「本を読んでいる(あるいは読みたい)」というように言い表せるかなと思います。また本を読むきっかけも、発達心理学的な考え方においては、父親が多読家であり家に過不足なく本が置いてあったのを小さいころから目にしていたからと言えます。ですが、父親の読む、読んできた本が、必ずしもわたしの読みたい本ではなかった、というところが個人的には面白い。なのでずっと不思議に思っていました。歴史小説とか純文学が好きな父親はそういった本を揃えているけれど、全くそれに興味を示さないわたしを含め母親は、かつてその本たちを邪魔者扱いしましたし、いまでも「スペースをとるから実家にでも持って行ってちょうだい」というような有様です。

   一方で、たくさん本を読めとは言われませんでした。ですが「本を読めば必ず頭がよくなるわけではないけれど、頭がいいやつはだいたい本を読んでる」という父親の言葉がずっとこの身体には残っています。*2しかしその言葉に絶対的な力が無かったことは確かです。周りを見渡すと ―わたしは決して優秀な学校を出ているわけではありません、頭のいい同級生たちはすべからく多読家でした。とりわけ、大学へ来てから ―優秀な人たちに常に囲まれる日々を送るようになってからそして刺激を受けるようになってから、さきの言葉が証明された気もします。

 本を読んでいないと本を読むスピードが落ちるのはもちろんですが、ものを書いたりするスピードや精度もばらつきます。そして逆も然りです。つまり、わたしは本を読むからものを書くし、ものを書くから本を読むということです。これは決して切り離せない密接不可分な行為であり、後退もしますが前進もする行為です。強固で連結的なものです。

 

 どこかで人の面白い記事を読めば、わたしも書こうとなるし、逆に、面白いものでないモノを読めばわたしはこう書く、というようにまた別のものを記す作業に入ります。*3それは、わたしにはわたしにしか書けないものを書くから、あなたにはあなたにしか書けないものを書いてほしい、というような交換的な物事の流れだと思います。しかしまあ振り返ると、わたしの理性が邪魔して困っているのは、その記事製作者が、どのような生い立ちでどんな境遇に置かれていて、どのようなものを食べ、どのような空気を吸って過ごしているのか、というように無限の想像が ー芋づる式と言っちゃなんですが、ずるずると出てくることです。どう制しても気になってしまうのです。だから自己紹介や生い立ち、自らのアイデンティティとなるものには変なこだわりがあるし、他人のものもよく見てしまうことがあります。何者であるかにこだわっているのは、実はわたし自身なのかもしれません。

 

 ブログとは読んでいる誰かをまったく意識せずに「ひとりごと」であれるのか - 勢いあまって

*1:いつも言っていることです

*2:ここでは「だいたい」というのがたいせつです

*3:ほとんどが書きませんが、ここでは書こうとするという動機というのがたいせつです