何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

自己紹介と女子大生

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申しおくれたがわたしは男子大学生である。以前、サブタイトル的な枠に男子学生あるいは体育学生と記入したことがあったが、しっくりこなくて削除した。なぜしっくりこなかったかというと、その"男子"あるいは"体育"〇〇というシンボリックなソレにあてはまるほどアイデンティティに確証や誇りが持てなかったからである。しかし、大学生と表現されるブログ界隈でよく読まれているブログには、ほぼほぼ決まって"女子大生"の文字が入っている。そこでわたしは"女子大生"あるいは"女子高生"と称すれば、よく読まれるのではないかと考えたが、ボツにした。というか実践しようとは思わなかった。〇〇の父親やサラリーマン男性、男性教授が書くものよりも、この手の類の文章では〇〇の母親だったり、OL、そして女子大生の方が飛び抜けて読んでみようという気になる。ではなぜ女性ものはよく読まれているのだろう。

 

名乗るということは、わたしがわたしであるということを第一に認識するほか、わたしはこういう人物であり、このようにみて欲しいという期待感から表出される行為だと思う。就職活動を経てわたしが身につけたスキルといえば、コミュニケーション能力について深く考えることよりも、自己紹介をできるだけ不備のないように、かつ長ったらしくウザくなく思ってもらえるよう、そつなくこなすことだった。免許合宿や複数のコミュニティに行き来するあいだ、わたしはたくさんの自己紹介をそつなくこなした。一度に、どれだけてんこ盛りに施したって向こうがもうきく気が起きない ーすなわち、まあもう話さなくてもいいだろう、という気にさせては元も子もない。それから込み入った話や個々の物語を聞くことは事実上極めて難しくなってしまうからだ。

少なくともわたしは、いかにシンプルに、かつ短く、そしてこれからも話したい、すこしでもなにかか聞いてみたいと思わせるために自己紹介をする。高校の恩師は、目標設定に関して以上のようなことを当てはめて教えてくれた。

さて興味を持ってもらいたいなら、わたしは女子大生です、とでも一言に言ってしまえばいい。その後の事についてわたしは責任を負えないが。

だがまあ、わたしが何者であったとしても世界はどうにもならないし、本質的に何者かが何者かによって存在を揺るがされるようなことはまずないだろう。揺るがされる時はきっと極めて社会的なことだし、誰かがいてのソレだ。アイデンティティ・クライシスみたいなことはよっぽどのことがない限り起こらない。しかし世界ではあり得ない数の存在論的不安を抱えている人がいる。アメリカで何かが起こっても、子分である日本は本質的に変わらないだろう。あくまで希望的観測だが。若者はみんなそう思ってる。イギリスがああなった、それならばアメリカもそうだろう、違った文脈であっても予測はついていた…。

就職活動のことを思い出したくなくなって、朝井の何者は読むのを中断している。

ここまで書いてやっとわたしは、ああ酔っ払っているのだと感づいたけれど、仕方なく、なるべく迷惑をかけることのないように、まるで父親が子を家から送り出すようにして予約する。