「僕」と「私」と「わたし」の記録

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『1Q84』という物語への所感

短くまとめたい - 勢いあまって

 

1Q84 のBOOK2を読了した。わたしはこの物語からいろんな感情を見出せたし、恒例の「まるで〜のように(だ)」という村上さん特有の比喩ボケ*1には何度も笑わせてもらった。あれをダメという人がいるが、むしろ私にとってはあれがなくてはダメだ。

「どうしてそこにそれを当てはめる…。」「てかそれわかる!!」

それの繰り返しだ。

 

 私は本編をなるべく注意深く読んだつもりだったけど、進むにつれ思っていたより内容が複雑化し、最後の一文を目で追い終えたとき、肩透かしを食らったような気分に陥った。特に長い物語を読むためには総じて不可欠なのかもしれない。つまりしっくりとくる物語は物語ではない。

刊行当時は、このBOOK2で物語が完了したように巷では囁かれた。そして周知のように、1年経たずして2010年4月16日に世に出たBOOK3の存在は、ファンを"ふたたび"驚かせた。その頃の私は、村上春樹の「む」の字も知らなかったクチなので、これ以上想像するのに限界があるが、たしかに村上春樹の長編大作は、ハリーポッター・シリーズでなければジブリでもない。

 

 「1Q84」巻末には「1984年にはなかった語句などを使用しています」的な注釈が必要とされた。私の生まれる10年も前*2の日本が舞台なので、これまた近いようで遠く、想像は容易くないことだけど、私は彼の文体に"旧さ"を感じることができない。ノルウェイの森海辺のカフカも、風の歌を聴けにも同様の所感を得た。象徴的な出来事や事件として、年代的な"古さ"は感じられても、そこに、別世界を用意するほどの"旧さ"を感じられない。はたしてなぜだろう。

天吾と青豆は、1Q84の世界に本当どうかわからない話の世界に迷い込んだ。今の私からすると、迷い込んだのはどちらが先でどちらが後かさえわからない。途中で人がバタバタと消えていった。適さない言い方を選ぶと、ザッと登場人物が減った。一番気がかりだったのは「空気さなぎ」の編集担当を務めた小松さんだった。彼は、体調が良くないという理由で会社から離れており、電話もまともに繋がらない。〈もしくは、個人として電話はもっていない?天吾に夜中にかけていたのは個人契約の電話だったろうか?〉それさえも曖昧になっているが、連絡がつかないことに変わりはない。その彼の行く末には、BOOK2後半では触れられていない。

 

 村上作品の中でバタバタと登場人物が減っていくのはなにも珍しいことではないし、そこが物語である以上、とりたてて悩む必要もない。だがしかし、象徴的な大きい泥船の乗組員として小松さん、あるいは戎野さんの行く末がどうなったかを私は知る必要がある。したがって、私がここで言いたいのは、この作品には当時のような流行の最中であっても続編はあると確信的に考えるべきである。

どうしてそこまでムキになっているのかというと「1Q84批判と現代文学論」という本に「当時のような戦略としての販売方法はファンを騙している。一種の詐欺行為である」と批評されてたからだ。こいつこそ何をムキになっているのだろう、村上春樹に何か悪いことをされたのかと思いたくなるような、現代文学を手掛けた周辺人への批判は見るに堪えなかった。しかし、我が大学の教授であることが判明した。

 

 いやそんなことはどうでもよく、改めて何が言いたいのかというと、当時の―村上さんの描く作品における年代の、そうした状況下が許される世界で人が相変わらず生きていた場合、あるいは「あの世界」が平行線をつづけ、現代という世界があり得た場合、そこでSNSはどういった役割を果たすだろう。純粋に私は村上さんの描く現代を見てみたいと思う。小松さんには触れられていただろうか。

 

 「電話も通じないし送ったラインにもまるで既読つかないよ」

 「病気で寝込んでるんじゃないかな。あるいはブロックされたんじゃない」

 「なるほどそれはショックだ」

 

 

やっぱりみたくないかもしれない。

 

おわり

*1:非公認グレーゾーン

*2:も、といったら失礼か