何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

タイトルはつけられない②

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その人の腋はぬくかったがわたしの腋はさむい。これから僕のやることなすこと、そして書くことについてをおもしろくなく思う人がいると思うと胸が締め付けられるような気分になる。少なくともいるのは確かだろう。わたしがここで書こうとする時、常に意識するひとがいた。いた、というのでその存在は過去のものになった。もしかすると過去のものでもなく、初めからなかったのかもしれない。そう思わせるほどの勢いで霧散した。常に意識していたので、そのある意味では後ろ盾のようなものを失ったわたしは何を目掛けて書けばいいのかわからない。怪談のために灯された火がフッと吹き消されてしまったみたいに前方が見えない。「自分で勝手に死ねよ!!!」という甲高い声がずっと、酒を飲んでる時も本を読んでる時も友達と楽しく話してる時もシャンプーしてる時も洗い物をしてる時も枕に頭を置いた時も、ぐあんぐあんと頭の中で反響して消えない。これからもずっと付き纏ってくれるだろう。わたしは就職活動に余りにも時間を掛けてしまった。3年と少しずっと同じペースで歯車を回し続けるように過ごしてきたのでガタがきた。通う大学も多様な色の変化を見せた。その所為かいま目にする風景は、何かがずれていてしっくりとこない。

不思議な体験というものは、再現性がなさそうだなあ、もう二度と巡り合うことはなさそうだなあと感知するところから認識するものである。世のドラマや物語とは何のためにあるのか考えたことがある。竹取物語とか宇治拾遺物語とか昔からある"ものがたり"は誰かの口によって、物を書く手によって語り継がれていったから物語化されたのかというとそれは違う。彼女たちの頭の中ではすでに物語は出来上がっていて、それをただ、徒然なるままに巻物に残した。流れゆく情報たちはあまりにもわたしにとって重要なことなので定義が曖昧である。情報が溢れかえるとその情報たちは途端に無価値になる。(改変し引用した)