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チョムスキーと途方もないこと

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 ここでは何度も、話すように書くのは難しいというのを言い続けており、もはやそれがテーマになりつつあるのを自覚しなければならない。それは一体どんなことからはじまったかを巡らせてみると、わたしが対話している時、わたしがわたし自身をメタ・レベルに無理矢理高めて、その状態を妄想しながら話していることに起因していると思う。つまり、わたしの場合少なからず背伸びをしながら対話しているのである。他人とのコミュニケーションに躓いた中学生の頃から薄々は勘づいていたのだが、ようやくそれが確証を得た*1。しかしここで厄介なのが、わたしはその対話を経て、または経ながら、これをどのようにして"書く作業"に落とし込めるのかについて同時進行的に考えている。話を聞きながら、頭の中で"どうにかして"文字に起こし、なるべくそれを回答、返答しやすい形に変形させている。ある日ある人にそんなことをしながら話しているんだ、と話すと、やっぱりきみはおかしいね、と返された。わたしもまあこれには納得である。だがこれらことは言葉に表してみると変なだけで、皆やっているように思う。少なくともわたしは頭のレベルが低い方なので、わたしよりも頭のレベルが高い人なら無自覚のうちにやっているだろう。そういえば別にわたしはここで同意を求めたくて書こうとしたのではなかった。やはりいま自分自身が思うこと、言わんとすること、考えていることを自動化機械的に文字に起こしてくれないかと願ってしまうのだ。だがそれは、不便なりの自由さという不明確な言い分によって踏み倒されてしまう。前置きは長くなったのでそろそろ本題に入ると、人と話すのはたいせつだよね、ということ。電話でもなんでもいい、メッセージはまたすこしレベルが下がるがないよりはマシ。そういったことを踏まえられるなら、この後期近代におけるコミュニケーション関係の能力はすばらしく飛躍的向上しているはずだが、相反しておいそれとうまくいかないことがほとんどである。言語について考えると途轍もなく厖大で、際限なくひろがる大地をもつ世界のどこかに転がる石ころのことをおもう気持ちになる。1年次のある英語の授業で、チョムスキー言語学に関する大著の一部分を和訳するという作業を少し思い出して吐きそうになった。あれだけ辛かった和訳はいままでない。それが今では、少なからず和文であれば嗜めるくらいにはなったのだろうか…?

*1:それも、異性との対話であるとなおさらのこと