何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

ネタに「する」とこと「なる」こと part1

わたしが日頃「ああ、これはネタになってしまうなあ」とか「ん、これはネタにしたい」という日常における断片的な感情についてを、それが自然発生的に成るがままなっているのではなく、まあちょっとした意思の下に成り立っていたということについて、分解しながら書いていきたいと思います。続くかわかりませんが、伏線は張っておいた方が面白いでしょうというカンジです。ちなみに卒業論文は行き詰まりました。はやく煮詰まってほしいものです。*1 

ところが一つ問題が。「ネタ」っていうと少しいやらしい件について。例えなんで、『「メモ」になる/する』でもいいかもしれません。 *2 

「する」というのは言わずもがな自発的な自動詞です。一方で「なる」というのは少し変だけど、あえて言うなら偶発的副産物といったところです。どこへ出かけても誰と会っても、気になったことをまとめたり、残そうとするのはわたしの性分なんで、紙とペンは欠かさずに持ち歩かなければなりません。なるべくそれを叶えられるように、某の外出時の持ち物が「財布とケータイとガム」みたいにならないように心がけているつもりです。しかし、忘れてしまうこともあります。そんなとき、この手のひらに収まる機械の出番です。とても便利なもんで大抵どんなことでも残しておけますが、結局のところわたしはあまり使わないみたいです。なぜならそれ汚くとも図式化したり走り書きすることができないからです。スケジュール帳もメモ帳も、デジタルでは敵わない ーなにかの言葉で言い表せない感情の付随したー システマティックな何かがわたしを"今でも"支配しているようです。

しかしこの点について村上さんは「大事なことは嫌でも頭の中の抽斗にしまわれる」みたいなことを言っています。つまり、よほど大事なことならメモするまでもないということでしょうか。それはわたしにもわかりますよ。

今後、こういう非メカニカルな若者(自分で言うと恥ずかしいですが)は生き残れないものなんでしょうか。やはり、みんなが縛られているのではないのでしょうか。

池上さんが「結果としてペン先でシャツの胸ポケットを汚したり穴を開けたりする」のにわたしはまだ至っておりません。その境地に未だ達していないということです。少なくとも彼のジャーナリストとしての信念や矜持が、取材者たる姿勢や態度となって現れでているのが分かる一文でした。あれはとても好きな描写です。

わたしは元来、メモを取ったりノートをまとめたりすることがあまり得意ではない方です。いまでもその見開きは汚くて、とてもじゃないけれど誰かに貸してあげられるようなものではない。そもそもノートとは「自分さえわかればいい」みたいな性質を持っているものでもありますから、あくまでそれに準じて則っています。それでも自分がわからない時がある。このワン・シーンに大学生活で何度悩まされたことか。あの時 ー質は良かれ悪かれその情報を得た時ー にはその情報の生の価値をおおよそ分かっているはずなんですが、まだまだこの技術が未熟なために、生ける情報をまるで生ごみを捨てるように伏せてやったことも少なくありません。

 

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*1:謎の他動詞

*2:いきなりタイトル破棄・変更の危機