いくら自由といっても、ぽんぽんと好きなことについて書けないことに、この頃になってようやく気付いた。「わたしたちは常に、どこかで縛られている。」それは特定不可能な期待を(過剰に)生み出して、また、仕方なく背負っていることでもあるのだ。
『コンビニ人間』で芥川賞を受賞した村田さんは、コンビニで働いている時こそアイディアがたくさん生まれるのです、と言った。私たちは何かしらの作業が進行している時、書くための材料を生み出すことができる。あるいは見つけることができる。
そこには、マテリアルが無数に落ちている。落ちているものは落ちているままあったほうがいいのか、あるいは拾ったほうがいいのか。それはそのマテリアルに遭遇した(というよりも目に入った)私たちが瞬時に判断しなければいけない。
一つぶちあたる壁がある。私の場合、ぼんやりとする時間はたいせつにしたいものの、何かを書こうとしてアイディアを創出することはできないということ。
いくつかの著書で紹介されているように、村上さんは、何も書けなくても、反対に、勢いよくたくさん書けたとしても、決めた時間に決めただけの時間しか机に向かわない。そこでは「書く」だけの作業しか選ばない。(というか選びようもない状況を作り出す。)
これに対して私が抱く所感や感想は、とても安直ではあるが、安直なりに述べると「ギリギリに迫った試験勉強のそうじ」が思い当たる。視界に入るものすべてに意識を取られてしまうと、目移りがする。あれもこれも、とやりたくなる。そうじなどの整理的活動で止まればよい。それが、読書などの終わり無き知的活動に接続され、没頭してしまったらもうおしまいだ。
私はここで以前から触れているように、移動の時間やだれかと対話している時間こそがアウトプットするためのひとつの踏み台を得ることができる。タイトルの本当に好きなことについて書けないについても会話しているときにふと浮かんだことだった。「好きなことについて書けない」はいろんなバイアスがかかっている。さまざまな要素を含んでいる。一つはまとまりきらないであろう不安やむなしさからくる途切れない未充足感。もう一つは、好きなものを批判されることを恐れることだ。前者は、とめどないものに対し呆然と立ち尽くしてしまうことだ。それをきちんと感情論押しやりで語れるんが「おたく」なんだと思っている。後者は、敵味方問わず多方面から集中砲火を浴びるケースを想像できる。
「好きなはずなのに君は全くわかっていないな。」
「何がいいのか、さっぱりわからない。」
まだ深まってはいないものの「秋」という季節はいろんなものを孕み、まとい、そして包んでいる。とても重層的なお饅頭だ。
そのうち大好きな金木犀が匂う頃、私はとんでもない哀愁を感じずにはいられなくなる。食の秋、運動の秋、読書の秋と評価されラベルをペタペタ貼られるように、いろんな個々の取り組みが深まる大事な季節でもある。
秋の夜長にしたいことといえば、昼にたくさん日差しを浴びた生暖かい床の温度を感じながらベランダでぼんやりとジャズを聴き浸ること。この季節はもちろんこれ。名盤で知られる。
Autumn Leaves
しかしまあ、好きなことを書けないなりに踏ん張らなきゃいけないこともある。きょうは気が乗らないのであんまり深く書かないでおこう。*1
怠惰な秋、それも悪くないね。
*1:いつも薄っぺらいって?聞こえないなぁ