「おばあちゃんおばあちゃんってねアンタ、おばあちゃんはずっとおばあちゃんじゃないのよ。わたしにとってはおかあさんなの、あんたにとってはおばあちゃんかもしれないけど。」
「え?どういうこと?おばあちゃんはずっとおばあちゃんでしょ?」
「おばあちゃんはね、おばあちゃんに進化したの。」
「(不服そうな顔をする少年)」
例のラーメン屋で麺をすすっていた時のことだ。たしかに、と見えないようにウンウン頷いていた。わたしも以前このように違和感を覚えたことがある。母が小さかった頃の話を話してくれた時のこと、わたしにとってのばあちゃんを母が「ばあちゃん」と呼ぶことについて「前からばあちゃんと呼んでたの?」というように問い詰めた。すると母は「ばあちゃんはずっとばあちゃんなわけじゃなくてね、当たり前だけど、あんたが生まれてからそう呼ぶようになったのよ」と、たしか言った。父と母が世間的には晩婚だったこともあって、わたしはひいばあとひいじいの存在はほとんど知らない。したがって、わたしにとってのばあちゃんとじいちゃんのおかあさんおとうさん、という感覚はわからない。
テレビでは、奥さんが旦那さんに「ママ」とか「母さん」と呼ばれるのを嫌うというのを見た。*1わたしはそれを未だ経験してないものだから実態はよく知らないし、なにがどんな作用を起こしているのか知らないが、やっぱりひとは自分固有の名まえで呼ばれたいらしい。わたしも昔は自分の名前が嫌いだったけど今では固有名詞としてなんとか機能しているようである。さきに書いたのとからっきし異なるものだけど、本質の部分はいっしょな気がする。
『ぼくは勉強ができない (新潮文庫)』では、主人公の時田秀美の周りに色んな性格の人物が登場する。身近にいるおじいちゃんもおかあさんも遊んでいてばかりだけど、その「遊び」に何かたいせつなものなたくさん詰まってる。「勉強はできなくても○○はできる」という風に、彼は自分にできることに強い誇りを持っている。そして、周囲の人間をよく観察し、自己反省的に高校生活を駆け抜ける。わたしが山田詠美さんのを読んだのは恥ずかしながらこの作品がはじめてだった。繊細な感情を表す描写や、思春期特有の胸のうちを叙述的な表現で可能にしている。彼女のデビュー作『ベッドタイムアイズ (河出文庫)』も読みたい。
つくづく、わたしは「余計で要らないことを書きたい」んだと、書いていて思う。必要最低限の伝達なら、一文で終わってもよい。そこにはユーモアも何も、工夫はいらない。事実を克明に伝えるのに必要な言語さえあれば何も要らない。たとえば、「リンゴがあった」というのと「部屋の真ん中にポツンとリンゴが落ちていた」というのと「タイル張りのフローリングには似つかわしくないリンゴ*2が部屋のオブジェと化していた」というのとでは何もかもが違う。
もちろんケースバイケースで、時と場合によるが、私は呆れるほど後者のような書き方になぜか憧れてしまう。それゆえ、一言にまとめられた魅力についても、飽くなき探求心を向けていたいのだが。
わたしは、その「要らない」部分に何かたいせつなものが隠されていると思う。つまりそれは極めて雑で、一般的に取り除かれるべきところで、「雑談」という形に帰結する。これは、内実を知りえない人からすれば有益でなければ何がおもしろいのかもわからなくて、直面し読みはじめることすら苦痛だろう。
Berryz工房 が『ジンギスカン』をカバーしたり、E‐girlsが「ライディーン」をカバーしたり、そのはやりは何なんだ。オードリー春日の髪型を指摘したら「それはテクノカットだ」って話から始まって、YMOのテクノポップはあの坂本龍一とかがやってたんだよって母さんその話になるとうるさかったな。わたしにとってテクノといえば、そりゃもちろんPerfumeだけどね。