何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

ひとりごとのメモです

 

 

コンビニ人間

コンビニ人間

 

 

村田沙耶香の「コンビニ人間」を読んだときに感じたのは「普通」とはなんなのか、はたまた『「普通」であることへの意志』*1に対してわたしたちはどこで意志を規定しているんだろうかということでした。「コンビニ従業員」を続けただけの暮らしはたしかに楽なものではありません。けれど、現にこの時代の暮らしというのは「コンビニ従業員を全うすれば、ささやかでも文化を享受でき健康を阻害されない程度に人は生きていける」ことを如実にあらわしています。しかしながら人は自分でないだれかと比べる生き物ですから自分で自分の首を絞めようとする。わたしが思うにその苦しみとは「規則ただしくコンビニで働き続けても過度に文化を享受したり健康を追い求められるような財力がもてない」ということではなく「コンビニ従業員として年を経ると周りから冷たい視線を受けるわたしは、一般に「普通」ではないと認識せざるを得ない状況におちいる」ことであり、極めて二次的な性質を持っています。そしていったん社会に放り出される時、身体がまっさらであればあるほど苦しみをあつめてしまう感度は高くなる。*2

いまやわたしたちの消費活動に欠かせない24時間営業のコンビニやスーパーは「当然さ」があまりにも強い。スーパーやマクドナルドが23時から24時に閉店するとなると強い嫌悪感を抱いたりします。ふつうならそれはおかしい。資本主義があまりにも強大になりすぎた結果、「にんげんの文化的で健康を阻害しない生活」を奪おうとしているわけです。かろうじて日をまたがないことで店をやりくりしていける。人権を阻害しているとか言うつもりはありませんが少なくとも私はそのような所では働こうと思いません。現実問題、わたしたちはそういった施設・店舗に過度に寄りかかっているにも拘らず、そういった施設や店舗の人間を平気で軽視しようとします。そこでまっとうに「普通」を生きようとする人間に対して作中の人物はいろいろな形で罵倒します。*3そんなこんなで先生のことばを思い出しました。「スポーツチームが年間を通してお金を集める額は、ひとつのスーパーマーケットの経済規模に勝らな」くて「いろんなビジネスモデルを駆使して集客し『スポーツで人々を元気に』と謳ったところで『食』や『居』の欲望領域を満たすスーパーマーケットには敵わない」らしい。

 

オリンピック中継、大会前はそんなに興味がなかったのにいざとなると見ちゃうね~~。

*1:断片的なものの社会学,2015

*2:都市部であればあるほど -都市的近代化が進んでいればいるほど、文化が充実していればしているほど

*3:罵倒もあれば遠まわしの苦言、いやみ