何を書くか、何を書かないか。

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差別と区別

 日中、暑すぎてそこらへんにある用水路に飛び込みたくなった。すれ違う人もみんな暑そうな顔をしている。電車でスマホに目を落としている人はもっとも不細工な顔をしていた。テレビでは地面に寝そべるリスの姿が特集されてた。リスが必死だったのに対し見物客はただ愛らしいとかかわいいとか言うのである。どんなサディストかと目を疑った。飼育員はこの行為には科学的根拠があるんですと張り切って言うのでつづけて見てみると、ただ地面の方が体温に比べて冷たいのでなるべく多くの面積を触れさせて涼んでいるというだけだった。しまいにはサーモグラフィ特有の赤色と青色で画面を埋め尽くしていた。純粋にわたしは地面ってそれなりに熱いのでは思ったがよく見るとそこは日陰だった。

 いま各局でひっきりなしに放送されているオリンピック大会には解説者(コメンテーター)と実況担当が必要だ。ゆえに彼らはひっぱりだこになる。実況はその各局のアナウンサーが務めるのでわかるが、解説者には誰がお金を与えるのだろうとつまらないことを考えたりした。言うまでもなく、その放送局の上の人なのであろうけどどのくらい貰っているのかが気になる。わたしの所属する競技部のコーチ兼監督T氏は日本記録をいまだに持っている。解説者の名物なのかは知らないがすこし前TBS系列で世界陸上選手権が放映されていた時よく出ていたということで、周囲(学外)の人間からは「名前は見たことあるし、声も聞いたことがある」みたいなことを言われた。ほんとうに、だからなんだという話だ。

 スポーツ中継の特徴として思い浮かぶのは、目下行われている競技の音声をだいぶ下げ、実況と解説の音声を視聴者によく聞かせようとする点だ。この事からわたしは、彼らの行為が競技から遠く離れている視聴者に対し、より鮮明で即時的な印象を与えるための機能として働いているように感じた。つまりそれは、彼らが「よっしゃー」「やったー」と叫べば似たように叫ばせ、「あぁ~」とこぼせば溜め息を漏らさせる。彼らの働きによって私たち視聴者はつられて似たような感嘆を表現することができる。その時一瞬でもわたしたちはあの舞台の傍、観客席に座ることが出来る。選手が活躍すればその日のその時間が濃いものになる。こうしてスポーツは人々の記憶に刻まれていく。

 さきに挙げたT氏は以前部員に対し「今年はリオに(解説しに)いかなくてもよくなったので存分に(秋にある)大会に向けてチームで備えたい」と言った。お金を貰えて現地でリアルタイムの競技を見られるのに競技部の活動を優先させるような示唆をした。いろいろと解説について考えた末「スポーツ解説は趣味ではない」ということが分かった。街場の観戦ではいけない。解説者は即興的に視聴者を唸らせるコメントをひねり出さなければいけない。時に差別的な表現が垣間見られるのに反発する声が、いまもうすでにリオでも出ているようだ。

 肌の黒い選手に対し、身体能力が高いだとか変なところから足が伸びてきただとか言うのはさすがにまずい。