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「補欠廃止論」について

 

 

日本代表監督を務めた経験があるセルジオ越後の『(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)』について、作家の朝井リョウが書評している。少し長いが内容を紹介したいと思う。適切ではないが、個人的に共感した部分に下線太字で強調させてもらう。

 

 日系ブラジル人としてブラジルで育った著者は、日本でサッカーの指導をするにあたり、ベンチに入れない、すなわち出場機会も一切ない「補欠」という存在に大変驚いたという。そして、ブラジルにはなかったその概念が日本の団体競技を弱くしている一因だと主張する。

 補欠が生まれる原因を探ると、まず、日本の子どもの運動経験の大半を占める部活動の存在に突き当たる。部活動とは教育の一環であるため、海外の子どもの運動経験の大半を占めるクラブチームとは違い、希望すれば誰でも参加できる。試合に参加できる人数以上のメンバーが属する部が続出する。しかし、大会に出場するときは一人一つのチームにしか選手登録を許されないことが多いため、必然的に補欠が生まれてしまうのだ。さらに「部を支え続けた補欠の存在」が美談として語られがちなこの国では、自分に合う別の種目を探すという判断を下しにくい。ここで私は激しく頷いた。

 継続は力なりという言葉の通り、一途に何かを続ける姿勢はたしかに美しい。だが、その継続する何かを決めるために様々なことを試すという過程が軽んじられてはいないか。これは部活動だけでなく、就職や婚姻にも当てはまる疑念だ。我慢して何かを続けることは、例外なく美しいことだろうか。忍耐力とは、時に、思考に蓋をすることに繋がらないだろうか

 『変化する勇気を持たないといけない』。そんな著者の警鐘は、つまり、私たちに思考し続けることを促しているのだと思う。補欠を生む現在の部活動の仕組み、勝利のみを詳細に報道し選手個人をアイドル化するメディアの在り方、地域ではなく企業に寄り添うプロスポーツの世界。私たちが疑いなく受け入れているものは、本当に正しいのか。怒りの言葉をエールと受け取って、私たちは思考を止めてはならない。変化すべき点が多いということはきっと、伸びしろが大きいということでもあるのだから。

 

『読売新聞』 2016年7月17日 朝刊「よみうり堂 本」 評・朝井リョウ

 

 

 

競技経験のない種目の部を任され、土日も練習に付きっきりにならないといけなかったりと、教員にとって運動部活動というのはウエイトがとても大きい。特にブラジルと日本の文化的な差異はあるにしろ、日本がいかに体育(教育)とスポーツを一緒くたにして考えてきたかが分かる。それは無理やりにでもスポーツに教育的価値を見出してきたということに他ならないと考えている。

 

わたしは先日の帰省でスポ少の監督と会ってきた。チームの人数が減りつづけていることについて嘆いていた監督が興味深いことを言った。

上の話に照らし合わせるわけではないが引用してみる。

「ふたつ大会が重なっている。片方が負ければもう片方の好い(強いチームと当たる)大会に早くに行ける。でも子供たちはどっちも勝ちたいっていうから、簡単に負けろとは言えない。そこで俺は考えた。(ある程度ポジションを務めたことのある具合に)ポジションをごちゃまぜにして、普段は試合に出られない子もおもいっきり出す。『負けろ』とはいわない。『そのチームでやれるもんなら勝て』って俺が導いてやる(笑)」

マンションや新築の建設に伴って地区として人は増えているはずなのに、たしかに人数は少なかった。少子化を肌で感じた瞬間だった。毎年5月から6月にかけて県内スポ少チームの総あたり戦があって、その大会の歴代勝ち抜き記録はわたしの代が築いた「4回戦突破」が「5回戦突破」に塗り替えられた。子どもは減ってもチームが存続する限りやるという監督は子どもたちをよく見ているなと思った。

 

 

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)

(096)補欠廃止論 (ポプラ新書)