入学早々に新歓で出会ったひとりの学生がいる。
学生のたまり場になっている宿舎近くの広場で出会った。そいつは妻夫木聡をすこし崩したような顔をしており初めはメガネをかけていた。たまたまサークルの新歓で一緒になった彼とはその後も食事に行った。
生物系を学ぶ彼は当初宅通*1をしていたが、晴れて親御さんに下宿を認めてもらったという。その二度目に会ったときにはメガネは外されていた。
そいつにやれよと言われて無理やりダウンロードしたゲームアプリは思ったより長続きしたが、やがてやめた。iPhoneが壊れて全データが強制的破棄されたっきりそのゲームないし他のゲームアプリにもいっさい触れていない。*2それから彼の連絡先も消えてしまって連絡を取ることが出来ないでいる。名まえもぼんやりと思い出せないでいるが、過去に彼とすれ違った松屋の駐車場を通るたびにほんのたまに思い出す。
わたしは交友関係が広そうだとよく言われるが、自分ではそうではないと強く思っている。「ともだちがたくさんいそう」だとか「ご飯に行くのに困ってなさそうだ」とか言われるがそれは全くをもって同意できない。それは愚か、まったく逆である。
大袈裟に言ってしまえば、過去に有名な成績を残した「〇〇は成績がふるわないから人でなしだ」と遠まわし的に思われる風潮は存在する*3。そして〇〇が怪我でもして、今までには考えられないくらいに成績が振るわないもんなら「あの人はじぶんも律せないような甘い人間なんだ」とか「一発屋か」と、いとも簡単に思われてしまう。現在のわたしはそれに当てはめられるほど名誉ある成績を一度も残すことは出来ていないが、似たような感覚を食らいながらこの4年間をひた走ってきた様子はある。
わたしの場合「練習で走れているときに溢れる妙な自信」は生活世界にも現れるし、そういった時にはなぜか筆もよく進む。そこにアイデンティティがどうとか持ち込もうとは思わないが、ランナーとして少しでも価値あるものを評価される時、そこで得られる自信は生活世界ないし現実世界においても有用な価値をもたらす。
結果を求める集団や組織においてはそういった慣習が顕著にあらわれる。勝利至上主義の世界に入り浸っていると、時として現実世界と仮想世界の区別がつかなくなってしまう。スポーツをやっていてそんな関係性ひとつで「苦しい」や「悲しい」そして「つらい」なんてことはあってはならない。*4
話は変わって、いつの間にかつくばにも夏がやってきた。こんなにも家にいながら夏休みを迎えてしまうことは過去になかったものだから「あまりにも急な夏の到来」を肌で感じている。目上の人年上の人がたくさんいるグラウンドで声を大にしては言えないが、スポーツ空間における「歳(とし)」をこの頃はじりじりと感じている。
たびたびこのブログにも出てくる文化人類学を学ぶ彼は、おそらく既に日本を立っただろう。またこの間は、地元が一緒の医学群ハードラーと食事にいってきた。もうすこししたら実習に向けた準備と、また、その実習に入るための試験があってそのための勉強を始めなきゃと嘆いていた。実は高校時代、彼とはほとんど面識がなかった。*5出合いは偶然にも、入居直後の学生宿舎で遭遇しそれから会えば話すようになった。*6やっとの思いで四年目にして彼との食事に辿りついた。(笑)
優秀な人と話すと刺激がもらえる。それはただ「彼の方が力がある」という決定的な差異を表しているのではなく「私は私、違うフィールドで頑張ろう」と決意できるからだ。
高校生の頃から、単純な利害に拘らずなく友だちでいてくれるひとを大切にしようと心がけている。ただ立ち止まって挨拶、一言交わせるだけでいい。スマートフォンやデスクトップを眺めていれば挨拶をせずして済む世の中はさみしい。
*1:自宅通学の略称。うちの大学では、キャンパス近くに下宿するか、文字通り自宅通学するかに分けられるが、市内または近隣の市といった比較的近い所からの実家通いか、電車やバスを乗り継ぎ1時間前後掛けて通学する学生もいる
*2:いまのところポケモンGOは眼中にあらず。熱が冷めたころにでも手を出そうかと思います。たぶん触れないけど、まずいかな
*3:悪く言えばそれを再生産するのがマスコミの役割
*4:「スポーツ」という言葉の意味をいま一度考え直す必要がある!
*5:中学時代から彼は速かったので一方的に知っていたが
*6:わたしたちの場合、学生宿舎は3つのエリアがあってそれぞれ10前後の棟を持っているので、相当な偶然だったと言ってよい