「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

価値観のちがい

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 中学生の美術は、すきな明朝体を拡大して模写するところからはじまる。次はたしか手の模写だった。もうここまでくると、高校と中学の記憶が混同するが、わたしはたしか美術/音楽の科目選択をするところで音楽を選び、自己紹介の時に好きなアーティストはと問われて絢香ですと答えたら、みなが豆鉄砲をくらったような顔をしていた。

 まだI believeを歌いはじめたその頃はというとauリスモウェブのCMでYUIがギターを弾きながらCHE.R.RYを歌っていた。甘酸っぱい春のラブソングはと聞かれたら真っ先にこの一曲を挙げると思う。と、ここまで書いて気付いたのがこの一連の出来事は、中学生の頃のものだっだ。高校の音楽の授業の思い出が無い。すっぽりと抜けている。とにかく手の模写は中学だったはずだ。

 

 切り傷や絵の具の痕、年季の入ったおおきな樹の机が9台ほど並んだ美術室の光景は、いまでも鮮明に思い出せる。なぜかと言うと、美術の先生が、わたしがここに赴任して1年目に聞かされたことなんだけど、と言って話したのが美術室の怪談だったためだ。よく覚えている。

 一つのおおきな机を4,5人で囲み授業は進む。席替えを済ませた頃だと思う、目の前にすわったMくんの画用紙をおもむろに見ていると、濃くて太い一本の線で何度も消しては描き、消しては描き模写を進めている。どうして何重にでも線を引いて描かないのとふいにわたしは聞いた。んん〜と唸るので、こうやって、ささっささっと描けばかっこよく描けてよく進まない?と付け加えた。すると彼は、その描き方は嫌い。こっちがいい。と首を横に振り、わたしが二重三重にも描いてしまったえんぴつの線に消しゴムを当てて滑らせた。

 どうってことのない瞬間であるけれど、未だにえんぴつやシャープペンシル、色ペンで簡単な絵を描こうとする時にあの出来事を思い出す。あの時、なんで消すんだよ!こっちの方がやりやすいだろ!とは言わなかったものの、少しだけムッとする自分はいた。しかしムッとした半面、その絵の緻密さやしなやかさに魅かれてそれもいいなと思えた。多様性とか多様な価値観とか言うとなんとも壮大で、厳かで、敷居が高いような気がするけれど、そうやって一人ひとりに生まれたルールを逐一認めていくことがひつようなんだと、あの時13歳のわたしは感覚的に気付いていた。

 

 

 

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 政党とは、言ってしまえば同じ価値観を持った人たちが集まるただのおおきなグループに過ぎなくて、ちょっと頭良かったりお金を持ってたりするだけだ。一方でその社会的影響力が大きいほどに、そのグループないしは個人(政治家)をルールが厳しく強く縛り付ける。ルールというのは、目には見えないものだったり文に表された規約だったりする。前者は言わずもがな、メディアを介して絶えず彼らを監視しているわたしたち世間の目である。

 そんなグループがこの狭い日本だけで何個もあると、本当に多くの価値観が目撃できる。詳しくはここで書けないけれどとにかく、どんな層をターゲットにし、将来的にどうしていきたいか、またこれまで嫌というほど看過され、山積してきた課題を解決できるか。それらを統括できるのか!!!が争点になる。わたしは政治には詳しくないが、あれはどうみても誰もが良いように感じる。そんな(半分達成不可能な)スローガンをマニフェスト(政権公約)と呼ぶ。

どこどこがどうで、あそこは嫌いだから見向きもしない。という風に、いまいちわたしもわかっていないが世間には右寄りと左寄りがあるらしい。それはすでに、あらゆる価値観の多様性を無視し、無意識的に、一方的に次なる判断を下していくに他ならない。

 

 

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 18歳に選挙権が与えられたところで、全員が投票しても幾ばくかの足し(有権者全体の2%)にしかならないらしい。それでも、あまりに触れにくく関心も持たれづらい政治というのは、個人がひとりの国民として不自由を受けることなく生活するには触れなければならない腫れものだ。いやでもわたしたちだけの世代はやってくる、腫れものに触れていくのは大切なんじゃないか。

 価値観の醸成は、何事も多種多様な体験と経験からはじまると、キャンパスを歩きつづけて学んだ。食わず嫌いするもよし。しかしチャンスがあるならば、臭いものにはすぐ蓋をせず、中身をちょっとだけ確認する作業に入っていってもいいんじゃないかと思う。

 

 

 

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 啓蒙とかとは程遠いけれど、すこしだけ言いたかっただいがくせいの雑感でした。また、同時にわたしが社会学を学ぶ意義というのは、さまざまな多様性を認めるところにあるのかなと感じました。また何事にも批判的になることは、なにも性格を悪くして厳しくすることだけじゃない。多様性を認めた上で、批判するにあたる価値を判断していくことだと思います。

 

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