「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

マイラバ のよさをわたしたちはまだしらない

なんでそれ知ってんの、の話をしたい。

 鬱陶しいけど、三、四本立てぐらいで。

 

 

「つゆ」らしい(?)

雨が上がって雲の切れ間から夕暮れにふさわしい日差しが差し込んできた。朝から弱い雨が降っていて、きのうきょうと気持ちが良くなかった。気持ちそのものがどんよりとしていて図書館にいても上の空というか、集中が持たなかった。

 

朝はコンビニ店員、夕方は家庭教師のアルバイトをこなす彼女を見送ってから、さっきもらったマフィンとこれは作ってくれたきゅうり&わかめの酢の物、はちみつをかけたトマトに安売りになっていたあさりを丁寧に塩抜きしてわかめとの味噌汁に、そして極めつけにはヨーグルトを食べた。やはりヨーグルトはBifixでなければならない。

 

そして気分も乗ってきたところで、My Little Loverの「Hello Again ~昔からある場所~」をおおきな音で流した。窓の外は、時間の流れに逆らうように明るくなってきたので、へやを出ようと思った。ブログを書きたい、とも直感的に思った。前の理由があったため、家をあとにした。

 

自転車にまたがり湿っぽさが吹き飛んだ夕方の道路を颯爽と掛ける。横断歩道がちょうど青になったので渡ろうとすると、向かい側にいた男性の自転車は止まったままでいた。自分が間違っているのか、と思ったけれどその止まっている男性を追い越してもう一人男性が向かっているのでわたしは自分が間違っていないということを確認し認識した。

 

しかしながらそれは本当の確認とは言えないはずだ。他者を利用したのだ。これでは「もしも赤信号の時、あの人が渡っていたから私もわたりました」→「あの人が殺そうとしているので私も同じようにしました」というようなものだ。自分でも書いていて、「それはそれで違うだろ」と思ってはいる。が、わたしたちが肌身離さず手に持っている規範や規律というのは、ちょっとした認識のしかたひとつで、どんな風にでも解釈できてしまい、「ほつれ」を顕在化させやすい。ものごとの一つの側面だけを見ているだけでは、その「ほつれ」がどんなふうにしてほつれているのかさえ想像がつかない。

 

 

 

「そつろん」とか

ひらがなで「そつろん」と書くとかわいい。「そつろん!」だと「けいおん!」みたいになってやわらかくて和む。(ファンのみなさん、すみません。)進捗はさておき、昨日からゼミの女の子と学校で卒論のための作業を進めた。その彼女の恋人にあたる男とわたしは宿舎時代から仲が良く、その3人やその他集団で話すことがしばしばあった。

 

 

そんな風にしてふらっと姿を見せた彼とは昼休みの時間を討論の時間にあてた。テーマは、各自の卒論について説明すること。例のごとくわたしは「伝統ある学校(抽象度高い)の応援団文化について」を話した。一方彼は、運動学を学んでいるものだから、専門競技のカヌーで「水をキャッチする局面にフォーカスした技術論」についてとうとうとしゃべった。けっこうな説明を受けたが彼女もわたしもよくわからなかった。彼女は「被災地におけるスポーツを考え直す(仮)」だった。

 

社会学っていまいちわからないんだよなぁ」という彼の意見は強くて、以前も質問攻めにあっていた。彼女と協力をして、太刀打ちしたところ少しは分かってもらえたみたいだったが、実際のところわたしたちもよくは分かっていないもので困った。彼も仕方なしに「どんな感じで卒論やるのよ」と聞くので、以下のように説明した。

 

①「けっこうややこい問題があるから提起する→てっとりばやい改善策がありそうなのでこれを用いて解決に導きましょう」

②「問題かどうかわからないけれどまずは実態そのものがつかめないため、前段階として調査に入る→ざっとまあこんなんでしたと報告する」

 

 

当たり前だけど学群生のうちに①にありつけるケースは少ない。というか、わたしたちの知識量なんかで、解決に導けるものだったらとっくの前に行われているだろうし、そしたら苦労はしない。でもそれを「オリジナリティ」がたすける場合もある。わたしの場合「応援団文化における研究」の先行事例がわりと少なくて困っている。これをチャンスと見るか、ピンチととらえるか、なんだけど。

 

けっきょく「広いっていうかさ、応用がきくんだよね」と彼女はまとめた。

 

 

 

「体育専門学群」って

わたしたちの学部は「体育専門学群」という。この字面だけ見ると、体育だけを専門的にやっているように感じるが、英語に訳すと「School of Health and Physical Education」となる。これは、身体教育(体育)だけではなく健康や保健に関する知識も学ぶことが出来る場であることを示す。2年間は、体育、保健、コーチング、スポーツと社会科学・自然科学の応用的なものの基礎を徹底的に詰め込まれる。

 

いま下級生はテスト勉強にあえいでいる。おなじく、わたしたちも通ってきた道である。そうしていまわたしたちは、教育実習や就職活動などの進路の苦難にあえいでいる。中には様々な理由で「イージー」や「ラッキー」な人もいる。勘違いしてはならないのは、その人も違うフィールドでけた外れの努力量をこなしているということである。「体育は...」と言われてすでに慣れてきたが、そういった仲間たちをあるカテゴリーに属しているだけで悪く言われるのはあまりうれしくない。

 

そうやって詰め込まれた2年間を経てやっと専門的な研究分野に手を出すことが出来る。あまりにも時間が足りないので、やっぱり詰め込まれる。だから、わたしたちにとっての「社会学」というのは付け焼刃な知識の寄せ集めに過ぎない可能性がある。そのため、たくさん話せないかというとそうではなくて、未来があると言いたい。ここで学んだことや得たこと、課題にたいする切り込み方のスキルというのは今後に生かされるとあのとき直感的に思った。『「批判的思考」や「クリティカル・シンキング」という流行りの文句に乗っちゃった感はあるよね 』って聞くと『たしかに(笑)』と彼女は答えた。

 

 

『どうして人間は当たり前のように、他者である国代表選手の出ているワールドカップやオリンピック、世界選手権のようなものに熱狂できるのか。(ナショナリズムを感じられずにいないのか!!!)』とかはもう聞き飽きた。若者たちがああいうのに熱狂している事実に関する検証やその他は「絶望の国の幸福な若者たち(2011)」を古市さんがおもしろく書いているので読んでいただければと思う。

 

 

 

ちょっとまとめ

とにかくきょう、訳も分からず学んでいるわけではないことは今さらながらわかった。話してみるとずるずると出るんだけれど、なんかもう、むずかしくて。言語化きつい。けど、あえて言うならばわたしから社会学に見えることは「当たり前と思われていることを何かしらの手法で切り崩して、分解して、ほぐしてみて、問題だと思われることを析出する一連の流れに意義がある」ということ。

 

内閣府による調査とかマクロな視点ででっかい社会調査を行って「いまの世の中こんな傾向があります」ってのも面白い。でも、それもいいけれど、もっとミクロなとこに立って、「個人の語りを引き出して、またたいせつに扱って、すこし集まったところで、この一帯ではこんな傾向があるんじゃないでしょうか」ってのを導き出す方がよっぽど面白い。

 

規範とか慣習とか、規律とかちょこちょここのブログにも出てきちゃってるけど、わたしたちにとって「当たり前」なことを「当たり前じゃなくする」瞬間が誰にでもいつでもある。その瞬間がシャッターチャンス。「あぁ~」ってなる。ショッピングセンターとか、駅の構内とかよく人が出入りするところだとやっぱり多い。あの時、止まっていた男性のまっすぐな瞳、すれ違い際に見つめられたまなざしがすこし怖かった。

 

 

本題だよね。DESTINYがいい

なんでそれ知ってんの、の話をしたいと思ったら脱線しすぎた。

My Little Loverの「Hello Again ~昔からある場所~」が好きで、エンドレス・リピートした時期があった。その時期に同じ歌手の「DESTINY」をよく聞いた。これは今まで知らなかった。通称「マイラバ」(本当にそう言うかわからない)の活動は1995から始まったみたいで、ということはつまり芸能活動としてわたしたちと同じ年らしい。

 

「DESTINY」は1998に放送された「WITH YOU」というドラマの主題歌らしい。当たり前だけどこれも知らない。この当時知らないのにいま知っているというのは、わたしにとって本当に興味深い。みんながどうでもいいと思うようなことが結構どっかに引っかかって、気になりだすと止まらない。それもそうだけど。「Hello Again ~昔からある場所~」はどこで知ったのかが本当に気になる。ドラマかアニメか、CMか。JUJUがカバーしたけど、その時にはすでに強い既視感を持っていた。

 

 

 

「あなたを想いだせば あなたをもっと感じられたのに 涙があふれること ずっとずっと知っていたのに」というフレーズが好き。

ちいさいころから聴かせてほしかったアーティストがまた増えた。

 


DESTINY