ほんとうにない。
やや煽られた。
いま、わたしの取り組んでいる一斉は、まったくじぶんのためのものであって、他ならぬ誰かのためのものではない。そうこうしているうちに「はたち」を越えたわたしの身体は老いる一方である。その老いるスピードというものは、本当の自分にはわからない。というか誰にもわからない。
厄介なのは「科学」の存在。そこに技術が加わって、現代ではなにもかもを可能にしてしまえという勢いが、業界を、そしてわたしたちを取り巻く生活世界全体を飲み込もうとしている。わたしたちはなんでも「科学のちからでどうにかしてくれる」とは思わない方がよい。自分の身体は自分が守る。時には周りの人に頼ればよい。(いまは頼りっぱなしであるけれど?)
はたして不老不死が可能になったら、生きている人は「死」の価値を重んじなくなってしまうだろう。それこそ、「金持ち=長生き」という構図が造られてしまう。ただでさえ、格差社会は悪化することを止めないというのに。
ここまで書き、ふと振り返ると、わたしはこんなことを書きたかったんじゃないと強く感じた。けれど、根源的にはわたしが常日頃からいいたいことの総体を表していて、なんだかなあとも思った。
小学生の時に手のなかで練っていたねり消しのように、いかにもソーダらしい色をしているのに、匂いはそれらしくない。つくられたものであることを表明しているアレに似ている。バナナの匂いは好きだった。けれど、あのきいろは直ぐに汚くなってしまうので、好きではなかった。
春に厚切りジェイソンの本を買い、触発されて自己啓発も悪くないと思った時期がある。けれど、けっきょくのところー現代人とおおきく括るわけではないがーわたしの周縁にいる人たちは、ものごとを「経験的に」生きることが多いので、わたしもそれらしく染まってしまっている。
広く言えるSNSで「おおきな人」にかみつく輩というものは、おおきな人が「何をしているのか」しか視ようとしないものだから、それを「経験した」ことがない自分にとって異物であるとしか見なせない。経験するしないの良し悪しではなく、想像力がかける事に問題があると思うのだ。「匿名性」というバリアのようなものが、一方的で、多面的ではない思考を後押ししてしまうのだ。
経験したことがないから想像することもできない。想像できないから理解が深まらず、ものごとに寛容にもなれない。寛容にもなれないから、あらゆる経験を拒絶し、排除し、結果的に「おいしい」ものを逃してしまう。逃してしまう自分に腹立たせてしまうから、「経験論は無意味だ、」と言い張ってしまう。とてももったいない発想である。
すこしだけ述べる。厚切りさんのよいところは、徹底的に妥協をせず「主観」をぶつけることである。ある角度で見ればそれは正しくないと分かるけれど、それも凌駕するほどに、現実の成果に結び付けられた経験則を持っている。
「文化」や「風土」は言い訳ダロウ、とさえ思っているんじゃないか。しかし、それはある局面においては仕方のないたいせつなことだと感じる。そう。どんな局面であっても寛容であり続け、すべてを受け容れていたんでは話が済まない。主観、考えはこうであると丁寧に提示しつつ「僕はこう思うんだ」という意思の表明をつらぬく姿勢は尊敬に値する。
グローバリズム、インターナショナル、、、横文字をなんでも理解するのは正直むつかしい。それなりに受容しつつ、日本らしさは失くしたくないと「大学生」であるわたしは感じている。マスコミは、最近の若者は~と、好くない意味で使うことが多い。案外日本そのものや「ローカル」が好きな若者は多いぞ?なぁ?仕事だろうけども、煽るなよ。ほんとうに。
わたしたちの日本は、とてもうつくしい。儚さにのせて、国力を低下させるのは勿体ない。公職選挙法改正による「18歳選挙権」というできごとも意義深いのでは?
厚切りさんのネタにある「Why?Japanese People‼」というのも興味深い。何をするにも「何故・どうして・なんで」がひつようだ。問題解決は「どうして」といった疑問→課題発見からはじまる。
どんなものにでも「それどうして?」ときづく感性を育てるための職業に就きたいと、、、ふと。
一貫性のない稚拙な文章ですみません。にしても、生茶おいしいなぁ。