「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

4度"インカレ"を実践して

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 インカレが終わった。いざ終わってみると、4度もこんな経験をしたんだなぁとしみじみする。どんな経験かっていうとそれがひとことではまとめられないし、いまはまとめようとも思えない。反省すべきところはたんまりとあるんだけども。

 
 とにかく、嫌なほど流れるように、あっという間に、大学生の象徴的な5月が過ぎていった。
 
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 すごい活躍をした選手が身の回りにたくさんいて輝かしい。眩しい。彼らのその活躍に至るまでの努力を間近で見ている ー少なくとも同じグラウンドで時間を分かち合ったー からこそ感じられるものがあって、なんだかひどく感慨深くなった。たとえそれはじぶんのひとりだけにあてはまることではなくて、各大学の選手やサポーター、学生の一人ひとりが、同じような気持ちを持っているはず。
 
それだけで、学生選手権は意義が深い。
 
 
 死力を尽くし、歯を食いしばり、己の限界に挑もうとする選手と、その一方で選手に、ーじぶんを犠牲にしてまでーサポートをし尽くすトレーナー、または選手たちがいる。他の大学であれば、サポートのみに徹する部員もいるだろう。大きく分けてその二つに分類される。
 
 
 こういった構図は、何故か自然と出来上がる。「体育会」と呼ばれる集団では、こういった構図を保とうとするために”ある規範”が投げ渡される。ある人は、その”規範”
の正体が何かわからないでいる。それらしい (体育会運動部らしい空気をまとった〇〇らしさ)何かを飲み込むように、ときどき吐き出しながら過ごしている。四年も経つと、血となり肉となり立派な”体育会アイデンティティ”が確立される。部が破綻でもしない限りこれは再生産され続ける。
 
 
 新入生部員は前に立たされ、応援を先導する。誰が誰かもあまりわからないまま。皆と同じTシャツをきて、皆と同じ掛け声をする。そうして部員一人ひとりは、部としてのアイデンティティを受け入れ、また自ら積極的に実践しようとしていく。
 
 
 大学らしい役割を振る舞うように規範化されると何か良いかって、仲間意識を持ち、皆と"似たような"気持ちで大きな感動を味わえることなんだろうと思う。これはとても大切なことだと思う。
 
 こればっかりは言い切れない。集団で活動するための制度や規範を押し付けられたり実践するよう強制されることが、いいとか、わるいとか、そういうことではないらしい。部員一人ひとりにどんな影響を与えたのかが重要だ。成功体験も、失敗体験も含めて。
 
 
 
 
 
 OBやOGは後輩たちをたくさん応援する。なぜなら、感動をまた大きくなった組織で味わいたいから。
 
 
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 さて、卒業研究では、通称で「古豪」と呼ばれるところの応援団を研究しようと思っています。興味がある方はぜひお話に付き合ってください。しましょう。
 
 まずわたしは、落ち着いて怪我を治し、トレーニングに取り組もうと思います。逃げるわけじゃないけれど、陸上競技は学生までじゃない。