何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

きのう書いたからきょうも。あしたはきっと書かない。とてもながい『告白』。

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  大学4年にもなると本当に授業はなくなってしまい、今まで詰まっていたはずの日中の予定はすっからかんになる。僕らの代は、大学全体としての新制度カリキュラムを受け入れた一期生にあたるので、「先輩方の訓え」は頼りにならないことが多かった。

 

  また、新学期の一大イベントと言えば履修を組むことで、誰しもが不安になる期間。もしミスをしてしまうと、複数の先生方に頭を下げて回る「スタンプラリー」というものをしなければならない(らしい)。中でも「体育」は「試合の時にもそういった言い訳をするのか」という言葉責めに遭うこともある(らしい)。わたしも一度ミスをしてしまったことがあって、履修における権威ある先生に頭を下げに行き、その場で対処してもらった。ほんとうに面倒くさくて、たいへん無駄な時間になってしまうので新入生をはじめとして在学生はキチンと確認したほうがいい。

 

  話は戻って、4年生にもなると春学期に入れなければならない科目は、大半の者が「卒業研究」だけになる。ついおととい、例の履修申請期間が終了したのだけど「卒業研究」を入れ忘れている人があまりにも多く話題になった。先生はガイダンスで「4年次は絶対に受け入れませんからね。留年か5年生してもらいますからね」とあれだけ念を押していたにも拘らず、あまりにも数が多かったためまとめて対処するらしい。そんな「かぜのうわさ」に、わたしはすこし戸惑っている。

 

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  最近のことだけど、就職活動と陸上競技と(ほとんど手を付けていない)卒業論文の三つを回すサイクルがわたしの生活を占めている。あとは、いまさら書くことでもないことだけど、1月末から関係を持たせてもらっている同級生との交際から、さまざまな意味で生活の質や内容が変化した。

 

  彼女は、障害について学ぶところに所属をしており、現在は「福祉」関連について重点的に学んでいる。尊敬できるところといえば、わたしなんかよりもはるかに「やさしく」、豊かな「寛容さ」を備えているところで、自然とわたしたちの間で飛び交う話題と言えば、だいたいそこらへんの内容が社会においてどんな問題になっているかというものだ。少々かっこよく言い過ぎたので訂正をすると、周りにいる、いわゆる「少数者」とはどんなことに困っているのかについてを話したりする。

 

  ところで、わたしは以前、ドラマを事例に挙げて「ジェンダー」について触れてみたことがあったが、それも彼女との日常会話からつくったものだった。普段から話していることをかいつまんでピックアップしてみた。最近では「(本やネットからの)インプットも大事だけど、アウトプットの方がもっと大事に思える」と互いに口にすることが多く、たくさん会話する相手が持てたことにつねづね幸せに感じている。

 

  たとえば、ドラマやバラエティ、ニュース番組を見ているときにも互いに「突っ込み」を入れ合ったりしている。この事件は何で起きたのか?この現場は、伝統・習慣的にどんな特性を持っているのか?家族の事件はどうして起こるのか?などなど。いま勝手に造ったものもあるが、大体はそんな感じの線を沿うような話ばかりをしている。

 

  そんなことを繰り返していると、自分がいかに社会に関心を持てていなかったかが露呈する。見え方ひとつで、事件事故のかたちが違ってみえる。そして、そこでひとつ想像をしてみる。この事件事故は、特定の「少数者」と呼ばれる人によるものであったならば...?と。その想像には答えがなく、心持ちを安定させるだけでも厳しい。

 

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  わたしたちの社会は、一見してそういった「少数者」に対して、寛容になりつつあるのかと思っていたのだけど、それは少々見誤ったところがあった。はたして、想像しかすることが出来ないわたしたちは、ただ指をくわえてぼーっと突っ立っていなければならないのだろうか。いいや、わたしたちは彼らに対してレッテルを貼るだけ貼って「わたしたちは多数派」と胸を張ってしまっているのか。

 

  彼らにとっての「日常」をドラマ化や美談にしたてることは、結果的にわたしたちに非日常を見せることになるが、それは期間限定のチャリティー制度である。一年に一度はスポットライトを当ててやるよという思惑が隠れているのか、ただ単にそういった制作の量が厖大でしかないからなのか。

 

  だいすきな岸先生の著書に、以下のようなことが書いてあるので引用させてもらいます。この文章の次のページにもぎっしりと「おもい」が詰まってあるが、いますべて紹介はできない。

 

 マイノリティとか少数者とか当事者とか、言い方はいろいろあるが・・・そういう存在について考えるということは、少数派である人々についてだけではなく、むしろ、多数者、一般市民、あるいは「普通の人びと」について考えることでもある。・・・ やっぱり「普通」というのはどこにも存在しないんだな、と思うようになった。・・・「一見すると普通に見える人びとにもさまざまな事情や状況があり、そういう意味ではその人びとも普通などではなく、それぞれに特別な存在である」ということだけではない。それはそれで事実ではあるが。(p.169)

 

 多数者とは何か、一般市民とは何かということを考えていて、いつも思うのは、それが「大きな構造のなかで、その存在を指し示せない/指し示されないようになっている」ということである。

 マイノリティは「在日コリアン」「沖縄人」「障害者」「ゲイ」であると、いつも指差され、ラベルを貼られ、名指しされる。しかしマジョリティは、同じように「日本人」「ナイチャー」「健常者」「ヘテロ」であると指差され、ラベルを貼られ、名指しされることはない。だから、「在日コリアン」の対義語としては。便宜上「日本人」が持ってこられるけれども、そもそもこの二つは同じ平面に並んで存在しているのではない。一方には色がついている。これに対し、他方に異なる色がついているのではない。こちらには、そもそも「色というものがない」のだ。(p.170)

 

『断片的なものの社会学』(2015)

 

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  また少しだけはさんで、エントリを閉めるとする。「性」に関する話題は、老若男女問わず関心を持つところだけれど、私たちのその関心の矛先は少々ズレている。

 

  ホモセクシュアル(同性愛)な関係を嫌悪し、ヘテロセクシュアル(異性愛)を当然と見なす。しかし、バラエティ番組において「同性愛者(オカマ)」の人気に伴う多くの起用から、社会が求めているニーズが移行しているともいえる(し、言えないこともある)。なぜ人は「ホモセクシュアル」を身近に感じたとき敬遠しがちであるのに、画面の中の世界では熱狂的に支持し、欲しがるのか。

 

 また、日常においてあたりまえのように「ホモだ!(ゲイだ)」と弄り飛ばすことは容易に可能であり、それは画面の中にみている世界がそれだけ遠いものであることを示している。がっちりとした体つきのプロ野球選手が「感謝祭」のようなもので「女装」をして笑いが取れるのも、実践者と見物客のあいだには「わたしは特に同性愛を支持していないから、自身に関係しないものとして雑に扱うことが出来る」という暗黙の了解が根付いていることを表している。

 

  これは、なにがダメとかイイとかではない。アウティングしてしまうなど、もしもの事態に、あなたならどう対応できるかということが問われるのだと思う。わたしは本質的に「女性になりたい」と思った時期がほんの一瞬でもあったので、その体験を書きたいが、「女装」したりする訳ではなく、男性が好きということもなく、カッコいい人はずっと見ていられるね、という程度だった。とくに何もなくふつうのように過ごした。朝起きて、自転車で40分かけて学校に行き、授業を受け、走って鍛えて、ご飯を食べて、本を読み、寝て。そのくりかえしの中に、ふとしたとき異質なものが挟まった。

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  文章の表現に示してみたこともあったけれど、しっくりこなくてあとから後悔した。半面「案外悪くないのね」と心のどこかで思っていたりした部分もある。そういうことを包括できないくらいの規模であっても、勘案してみるといまある姿や生活というのは、ほんのすこしだけ安定してきたのかなと思える。わたしは、(いずれは載せる)生い立ちからもわかるように異性に対する関心が、同性に対するものよりもはるかに高いので「女の子はみんなかわいい」とこぼしてしまうこともあるが、それでも彼女は怒らないので打ち明けられることがある。それは多少、他とは異なるものであったとしても寛容にかんがえてくれると直感的に思っている。制限時間はあるが、存分に感謝したい。

*1:アウティングLGBTにあてはまるいずれか、であったりすることを当ててしまうこと