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トイレにはいると

 

 とある定食チェーンに訪れた日のことだった。出入り口の右側にある男子トイレに入ると、幼稚園児くらいの女の子がひとり立っていた。とても気まずそうな顔をこちらに見せ大便器のある方を向いた。父親と思しき男性はきっと女の子の弟にあたる男児の相手をしていたに違いなかったが、ドアと壁でその姿が見えなかったので僕はこの空間に身を投じていいものかと5秒ほどためらって、けっきょく入った。女児は、身を壁に寄せるようにしてよけてくれた。

 

 「パパ~、変な目で見られるから早く終わらせて~」「外に出ててと言っただろう~、外に置いた傘のところで待ってて~」「お外はこわい~、はやく~」「まだお昼なんだから、怖くなんかないだろ~」

 

 親子の会話に板挟みになりながら、さっさと僕は用を済ませた。かれらの帰り道ではきっと、おねえちゃんがおとうとに不機嫌に八つ当たりしたに違いない。

 

 「ジェンダーの問題が盛んになっている」と感じるのは、それらに関心をもっている自分だからなのかどうかは分からないが社会が全体として(全体は何かわからないしみえない)「理解を広めよう」としている機運が高まっているようには感じる。例によって、SNSや新聞では頻繁に「LGBT」という単語を見かける。

 

 そういった機運が高まっていることに関して言えるのが、性別の壁はなくした方がいいのか悪いのかという問題だ。ひとつ、Gentlemanのマークは青か黒かで示されるものだが、そのマークの付いた小部屋には、立小便専用の便器しか置いていなかったとする。一方でLadyのマークはおそらく赤色で示されて、そのマークの小部屋には便座のみが置いてあるとする。また、コンビニの多くは両方を利用できるように出来ていたりする。そのように隔絶されているトイレはもう少ないだろうけれど、いつだったか入ったお店にはそういった分け方がされてあった。この隔絶は何かを意図しているのかと考えたけれど、とても無駄なことだった。

 

 それ以上に気になったのは、なぜ男は青/黒で、女は赤なのかということだった。僕はこれについて小学5年生ころから考えているけれど、いまだに明確な理由を見つけ出せていない。

 

 今回の一件が何か意味ある出来事だったわけではないにしろ、そういったコンビニにあるようなトイレだったら、あの女児も僕も気まずい(窮屈な)思いはしなかっただろうけど、年齢という問題で考えてみたときに、どちらにせよ女児は僕に対しておびえたり、気まずそうにはしたのだと思う。

 

 しかし、ふと思い返してみると僕の通っていた幼稚園は、”トイレは別々”という発想がなく、ふたつの教室をつなぎとめる通路としてひらかれていた。よく、男児はそこで屯し、女児が来ると冷やかす。気になる異性だったら尚更で、なかなかそこを明け渡そうとしなかった。そんなくだらないことに更けていたら、もう4月も終わりそうで、思い浮かべた幼稚園の桜ももう散っているのだろうかと思い馳せた。

 

 地元に帰ってみると、空気そのものは暖かく、なにをしたって包み込んでくれそうだった。大人の話はよく聞いた。自分がなりたいものは何なのか、集中的に考えた半月ほどだった。ところが、明確な何かはまだ掴めないでいた。