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『あさが来た』を観おえただいがくせいの雑感 -ジェンダーに興味を持つとこうなる

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 『あさが来た』が終わり、あたらしく『とと姉ちゃん』がはじまりました。波瑠さんから高畑充希さんへのバトンタッチ。どちらの女優さんも透明感抜群で、見ていて惚れ惚れしてしまうよう。

 

というのは置いておいて、、、

 

 朝ドラはやっぱりいいですね。『マッサン』を途中から見始めて、その頃からある程度習慣化されました。あの頃は、土曜日は抜かしていたやつです。(笑)

(その記事についてはこちらをご覧ください→ 朝ドラ - あらいの

 

 朝ドラはヒロインが重要というだけあって、女性を中心にして描かれます。そこでは、あまちゃん能年玲奈さんやごちそうさんの杏さんなどなど。その時季の旬と言われる(もしかしたら旬に仕立てたい?)女優を扱います。なので「朝ドラでブレーク!」というフレーズはよく聞くと思います。

 

 もう何度か、僕のブログを読まれている方は文脈的に分かるとは思うのですが、ドラマというのは社会学の中でけっこう重要な立ち位置におり、重要な材料になります。というのも、例を挙げますと敗戦を迎えた戦後の日本がどう変わっていったかということは、アメリカのホームドラマに対するあこがれ的志向にもとづいてなされてきたということ、とか。

 

 テレビが普及し、各家庭に一台というのは当たり前になった現代(昭和末期から平成初期)では「テレビっ子」というフレーズが生まれたように、爆発的にその数を増やしていきました。なのでその分、影響力があるのも頷けます。知らず知らずのうちに日本人の家庭観というものはアメリカのホームドラマなどを見て、「家庭はああなるべきだ」というように作られ得るのです。(サザエさんちびまる子ちゃんドラえもんクレヨンしんちゃんもそういうこと)

 

アメリカのホームドラマでなくともいろいろあると思います。影響を多分に受けたドラマとか。

 

 

 さて、ホームドラマから話をすこし戻します。そういった女性中心で描かれるドラマというのは、視聴者からの意見もそれなりになるはずです。以前、どこかの掲示板で見たのは「大河ドラマも女ばっかりを使っていておもしろくない」という声でした。この投稿者が男性か女性かは判断できなかったのですが、おそらくですが社会的性別における男性ではないかと。(判断できないのがネットの怖いところでもありおもしろいところ)

 

 上のような声に同調するように、似たような意見を挙げる人は他にも散見できました。大河ドラマの主役に女性を起用にすることが、視聴率低下につながっているかどうかは判断しかねるのですが、そういった、時代劇=男らしい武将などを取り上げるという風潮は、「歴史上活躍した女性を取り上げること→時代劇には少しも女々しさは不要である」という構図が存在していることを示しているのかもわかりません。

 

 

 またこれは、ちょっと前に考えたことなのですが。

「ドラマは社会を映す鏡だ」ということについてですが、もしかするとその因果は逆であるかもしれないと思うのです。(それすらも当たり前だったらすみません)ドラマは社会を映す鏡であるとともに「あたらな社会を作り出すための文化的な装置」ではないのかと。

 

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 日本における本格的な女性の社会進出の発生は1911年(それこそ『あさが来た』の最終週付近に出てきた)平塚らいてふの社会運動『青鞜社』の結成です。(広岡浅子の創立した女子大学校の女学生として学んでいた平塚らいてふは『青鞜』を創刊し先に書いた社を結成。)また、1920年には『新婦人協会』を結成。

 

と思っていたんですが、資料を確認するところ違っていた。

東京に官立女子師範学校(現,お茶の水女子大学)の設立は1874年になされ、83年には自由民権運動家の岸田俊子が女子の社会進出について演説しその後投獄。それからも何度か、運動はなされているようですが、それぞれに処罰が下っています。

なので事実として、社を結成し本格的な活動が世に広まっていったのは、平塚のものからと言ってよいようです。

 

 

 

 社会に声を投じる「社会運動」の存在は許されても、その声がみえる化するまでが長く、平塚の時代からおよそ100年弱経ったいまでも「女性の社会(政治)参加」は極めてマイナーなものとして見なされてしまっています。

 

 ひとつのものさしとして、考えられる原因は「歴史が短い、浅い」ということです。まだ、日本でそういった「歴史」を覆せるほどの革命家は誕生していません。他国には他国の歴史があり、風土があり、文化がある。ヒラリー国務長官は凄いかもしれないけれど、それを真似してどうこうするということは、この国においてはまた別の話です。

 

でも参考にしたいのはフランスの制度。ちょっと古いものですが参考になります。

www.nikkei.com

 

さて、まただいぶ話が逸れました。

 

すこしだけまとめましょう。

 

 女性実業家として母として、ふたつの顔を持っていた白岡あさ(広岡浅子)の姿は私たち視聴者の目にどう映ったでしょうか。温かい家庭を持ちながら、仕事は投げやりにせず、むしろ仕事優先の日常に娘・千代は強く反抗します。母・あさはそれに気づきながらもなんとかしてやりたいが、時代は激動の明治初期、文明開化による制度の大転換のさなか。それは衣服なり、住宅様式なり、交通インフラの整備なりに見られました。

 

 一度は、暴漢に刺され生死を彷徨いながらもやがて復活。家族や人とのつながり、そして第一に「命あること」の大切さを再確認し、また邁進していきます。それと同時に、娘・千代もだんだんと大人になっていきます。(いつの間にか子供は4人に)

 

 ものがたりの終盤は、時代を駆けめぐってきた「あさ」の生涯をゆっくりと少しずつ振り返るように、近辺にある人間関係をととのえていく様子が描かれていました。さいごは数ある事業からは手を引き、娘・千代の夫や8代目たちに任せ、新次郎と過ごし最期を看取ります。

 

 仕事と家事を両立できているように見えたのも、それは彼らの身分や環境が、それなりととのっており、上流であったということに起因するとも思いますが、根本では、現代社会に置き換えても変わらないと思います。働いて育児をすることは極めてたいへんです。僕にはまだ、子どもはいてませんので生意気なことを言えませんが、自身の母、そして父の背中がそうであったように命を授かり、そして守るというのはかんたんじゃない。

 

 生き方が多様化すると言われて久しいこの現代では、あたらしい生き方を見つける人がいれば、見つけられない人もいるわけです。しかしながら、あたらしいものを見つけることが義務なのではありません。自分なりの、オリジナリティを見つけることがたいせつなのです。

 

 また、歴史を見返す、ということは、歴史をもう一度繰り返すためではなく、参考にできる部分をみつけることだと思います。同じ人間として、1000年経っても変わらないことはたくさんあります。(それは古典の醍醐味でもあります。)

 

 およそ100年前、白岡あさは作中で「生きづらい世の中になりました」と言っています。けっきょく、いつになってもそうなんだと思います。いまもたいへん生きづらいかもしれない。これは僕の中での永遠のテーマです。『時代について考える』こと。

 

 働く女性のよきロールモデルになるかどうかは分かりませんが、

『あさが来た』僕は好きでした。

 

 

うれしいニュース!

www.asahi.com

 

朝ドラはやっぱりいいですね。

 

 『とと姉ちゃん』も楽しみにしています。きっと半年後、また同じような(でもレベルアップした)記事を書けることを祈って。

 

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