ふと目に留まった記事です。まあ中々つまらないものです。私たちの世代は、ゆとりと呼ばれてきました。それは本来、従来の反省として詰め込み教育ではなく「ゆとりを持たせようよ」というポジティブな意味合いがはじまりでした。がしかし、それで著しく学力が低下したというデータが出てしまうと、揚げ足取りや足の引っ張り合いみたいな現象が起きます。そもそも「学力」とは何でしょうか?
若者は読書をしない、学力が落ちたといわれて久しいこの現代日本におけるこのような現象はどんな弊害をもたらすのでしょうか。公的な教育機関を出てから、ずっと考え続けなければならないことでしょう。
僕は「読書しないことが悪ではない」と思います。けれど、少し突っ込めば「読書しないことは良ではない」と裏を返せると思います。再三言っていますが、あれは父の言った「本を読むやつがみんな頭いいってわけじゃないけれど、頭いいやつはたいてい本を読んでるよ」という言葉です。これは僕にとって非常に強い影響を与えました。データなんか必要なくて直感でそうだな、と思いました。中学高校と聞かされたこの言葉はいまの僕の軸を作っていると言ってもよいでしょうし、ほかの人に「なぜそんなに本を読む?」と訊かれたときは決まって、そう切り出して答えるようにしています。
上の記事のような社会調査のたぐいはいろいろな仕掛けがあると思います。もちろん、過去と比較するという方法を原則用いていると思うのですが、はたしてその比較自体正しいものなのかどうか。つまり量的なデータとはそういうものです。
「子どもの体力調査」についても似たようなことが言えます。「体力テスト」は昔の調査方法(あえて挙げるならば今の僕たちの親の世代40~50代)と現代のものとではやり方がまるっきり異なる。ジェネレーション・ギャップです。もちろん、同じやり方が継続して行われているものもありますが、総体的な評価として絶対的評価は下せないんじゃない?と思うわけです。
「一日の平均読書時間が28.8分」という数字はどんなものなんだろうと感じます。30分弱でも本を読むようにしている人だけが切り取られた調査結果の総体なのか、細切れにでも読むようにしている人の読書時間がトータルの数としての30分弱なのか、いまいち僕には分かりませんが、この28.8分という数字に疑問を持つだけの価値はあると思います。
また、読書することが全てではないことが明らかならば、生活における多くの時間は何に振り分けられているのかという疑問も浮かびます。
休日を例にしましょう。生理的なものとして睡眠に7時間、食事には2時間(用意10分+実際の食事30分*3)、入浴その他に1時間と振り分けていくと、残された時間は14時間。時間が無い時間が無いって騒ぐわりには案外時間ってありますよね。その時間全てをスマートフォンやPCの使用時間に費やすとすれば、結構大変ですね。
僕は忙しくするのが苦手だし、タイムマネジメントが大切だと感覚的にわかっているんだけどもなかなか実行に移せない。生理的なもの以外の作業に忙殺されるのは好みません。ただ、時間がゆっくりと流れる中で、カップを揺らしながら頁をペラペラと捲っているのが好きです。
だから、タイムマネジメントとかいう硬い言葉を使わずに、「制限時間をいかに意識するか」をつねに考えています。恥ずかしながら、前回書いた記事にはそういうようなニュアンスを含ませたかったのですができませんでした。よかったらもう一度閲覧していただいて、意を汲み取っていただけると嬉しいです。
さて、現代は人が何をするにも、調査して評価される時代なんだそうです。苦しいですね。
僕はいまつくばに住んでいますが、都内近郊に住んでいる友人の多くには「つくばってなんもないでしょ?いつもなにして遊んでいるの?」と訊かれます。上の記事になるような対象は、きっと彼らなんだろうなあと思いながら、厭々「はしってるよ」と答えます。彼らはテーマパークに行ったりお買い物を毎日のようにしていないと「遊んでいる」とは見なせないようなのです。(僕だってお金があるならそうしたい)
次からは、ロジェ・カイヨワかヨハン・ホイジンガの遺した「遊びの概念」についてしっかりと学んでから訊いてください。
- 作者: ロジェカイヨワ,多田道太郎,塚崎幹夫
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