何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

ここまでのはなし

いまこうやって机に向かってキーボードを叩いているわけだけど、目をつぶったらすぐにでも寝れてしまいそう。それくらいに眠い。朝から練習をして昼休憩をすこしはさみ、その間には洗濯物を干して、いそがしく午後の練習に向かった。午前はたくさん走り、午後はたくさん重いものを挙上して、とにかく今日の僕は疲れた。でも、ふとすると僕はいつものごとくキーボードを叩いている。

 

ブログは自分が主体的に書いていると思う。そう思っていた。けれどさっき気が付いたのは、自分は他者からの目には見えないはたらきかけによって「ブログを書いている」という根拠も、突拍子もない変なことだった。ブログをよく読む。ほとんど読む人は決まっているが、その内容は決まっていなくて日々の変化に僕はウキウキする。ウキウキするというと少し気持ち悪いけれど、更新されていると気がついてから読むその瞬間まで、本当にそんな気分でいる。

 

ブログを読むと書きたくなる。僕は恥ずかしくてうまくコメントに載せるように僕の手からはばたかせてやることが出来ないからそういう思考をする。反論でも同調でも、とにかく自分なりの意見のものを書くということがしたくなる。ほんとに生意気だ。「読むことは書くこと」というのをついさっき見たけれど、僕のなかで今もやもやとしていることの正体は、まさにそのことを示しているような気がする。

 

案外、自分の思っていることはほかの人も思っていることが多い。だから拡散機能や足跡機能みたいな装置が再生産される。どこもかしこも同じようなことばかりして、独自の文化を切り出すための努力が見られなくてちっとも面白くない。これは仲間意識とかそういう生易しいものではなくて、またともに流行に敏感になっているということに対しても同義ではない。ただタイムリーで偶然的な出合いがあるから僕はいまドキドキしているのであって同じように明日にはまたウキウキするんだと思う。

 

村上さんの『職業としての小説家』をこの頃は読んでいる。「小説を書く人は寛大な心をもっているよね」という友人の不思議なことばを聴いてさらに興味が湧き、貸してもらった。序章ですでに、村上さんの魔力に憑りつかれている。同時並行させているのは川上さんの『すべて真夜中の恋人たち』と古市さんの『誰も戦争を教えてくれなかった』。この二冊についても、いつか追って紹介でもしたいと思う。湯張りのぴーぴー音が鳴ったからきょうはここまで。