「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

消しゴム


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僕は二つの保湿液をもっていて日によって気まぐれで使い分けている。その保湿液の片方の匂いが僕にとって、とてつもない何かを想起させる。




突然、きょう思い出した。それは中学に上がるとき何かの記念に町内会からもらったシャープペンシルとセットになっていた消しゴムだった。特に匂いつきとしての機能は果たしていなかった気がするが独特のいい匂いがした。きらいな数学に取り組むとき、とくに計算問題で頭がごちゃごちゃになったときその消しゴムを鼻に当てた。なんだかスカッとした。僕の苗字のはじめはア行なので席は1番窓側の、アベさんに続き前から二番目に座っていた。慣れない学校生活も3週間が経った頃、やっと桜が顔をみせた。窓からぼんやりとみえるピンク色した花びらは心を少しだけ落ち着かせた。特別な感情を抱いているわけではないが、桜はやっぱり好きだ。きっと、日本人としての潜在的な意識か何かなんだろう。

僕の住んでいた宮城県は東北地方に位置しており、開花はやはり遅かった。4月中旬になって蕾が開き始め、5月に入る頃ようやくきれいな華を咲かせた。つくばへと越してくるまでに、都内を通過しなければなかったその時のこと。3月下旬に都内でみた桜の華は、僕にとっての違和感を多分に含んでおり、なんだか慣れなくて、それも自信なさげに咲いていた様にみえた。時間的な問題だけではない。綺麗に咲き誇る場所が窮屈すぎたのだ。

中学生の頃の僕は慣れない学校生活の一日一日をリセットさせるために、部活動に明け暮れたようとしたが、そこもやっぱり楽なところではなかった。家路につき、出される夕食を済ませ、ぼんやりとしながら勉強机に座った。また消しゴムを鼻に当てた。

今でも消しゴムを買う時には決まってそれを鼻に当ててみるが、あのとき以来出合えていない。カバーはきいろかったような気がするが、詳細なデザインを全く思い出せない。ぼんやりとしている。

その頃の僕がその消しゴムに救われていたかどうかは別の話で、いま僕がぼんやりとする対象はあの頃とは全く違うものだけれど、僕が僕として生きている以上、あの頃の僕を経ていまがある以上、本質的に、あの消しゴムが僕に何かしらの救済措置を施してくれるのではないかというジンクスに苛まれている。ほんの少しだけ。

またもう一度出合えるのであれば…消しゴムをさがす旅にでも出ようか。これは死活問題になりかねない。以上。