「僕」と「私」と「わたし」の記録

87パーセントはフィクションです

らしくない自分

 

 

 「じぶん」が「じぶん」であることに、疑問を抱くことがある。そう言っている矢先、自分でも何を言ってるのかわからなくなる。一方で、きょうはテニスをした。優雅なホリデイではなく、ちゃんとした授業で、ちゃんとした指導を受けた。

 

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  ブログを書いているとき、「じぶん」が「じぶん」でないような気がすることがある。「じぶん」が「仮のじぶん」を装ってまた一人の「第三者的なじぶん」を書き出す。単に書き方が悪いのか、ただ、そうやった方がおもしろいと思ってやっているのか、いまの自分に本質的なことはわかっていない。講義では、サーブの練習を少しした。だが、うまくなる兆しが見えない。試験まで、あと二週間しかないので、そろそろ焦りつつ真剣に取り組まねば、と思っている。

 

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 ちょっと前に「私以外私じゃないの」が流行った。コカ・コーラがとてもすきなので、それに相まってそっちも気になってよく聴いた。聴いていくうちにヘビロテするくらいにまで気にいるようになった。そういえば、このタイトルにも、歌詞にも使われている「私以外私じゃないの」というフレーズは、なかなか哲学チックだとおもう。さんざん連呼しているけど、よく考えてみると、あまり意味が分からない。でも、ひとを惹きつける力が強くあると思う。それと、、ゲームのほうは全勝した。先週は全敗しただけに喜びもおおきい。成長が見られて、改めてスポーツの良さをしみじみ感じている。

 

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 ブログは、自分に内在している何かを、常に棚卸し的に整理することができる。僕はお喋りなくせに、なんだかんだいっつも黙ってばかりいるので、話したくても話せない、ということが多い。でも最近は結構、人としゃべることが多くなってきたかな。今させてもらっている「一人暮らし」は楽しいけれど、僕の性に合ってはいないと思う。はやく誰かと暮らしたいと思う。誰かに決められたいと願う。

 

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 結局のところ、僕がブログを書くのは、苦し紛れに「寂しさ」を誤魔化しているだけなんだと思う。それでも何か残るものがあればいいやと続けている。これが適切な表現かはわからないけれど、「僕」は「じぶん」にブログを書かされている。とりわけ「じぶん」が「じぶん」じゃないと感じるときは、「過去の自分」のブログを読んだとき。何を思ってこんなことを書いたのか、赤面しながら読む。すると、そこには確かに「じぶん」ではない「じぶん」がいて、その「じぶん」は「いまのじぶん」とも全く異なる人間なんだと判断できてしまう。怒られた自分も、褒められた自分も、書いている自分も、「いろいろな自分」はすべて違うフェーズとして捉えられ、「それぞれ」が「それぞれ」のいろんな顔を持っている。

 

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 一様に「じぶん」は何パターンもあって、それが ひとパターンだと認識できるようになるのは、きっとまだまだ先のことで、いまだに「自分」は「他者(もの)に生かされてしかいないじぶん」なんだろう。日常における半強制的な他者との関わり合いでは、時に妥協をし、また時に妥協を拒み、「らしくない自分」を認めるようにして、やがて諦観へと辿りついていく。ほんの「さんびょうまえの自分」は既に「いまの自分」じゃない。

 

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そんなこんなで、今もわけわからない。