何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

おもいでと後悔と

 

僕の母方の祖父は、その昔大工さんだった。祖父の住む家も祖父の手で造り上げた。二階建てのおおきな家屋があった、囲むようにして広がる畑をふくめても十分に広い庭と、これまた大きな二階建ての小屋を二つ携えている。夏は暑く冬は寒い盆地としてひっそりと佇むそこは、山形県南部に位置する置賜地方米沢市というところにある。

特にそこは豪雪地帯として冬は厳しい。少年の頃の僕だったらすっぽりと埋まってしまうほどの背丈まで雪は降る。

 

ある冬の夜、足を広々と延ばして湯船につかっていた。そこでふと外が見たくなった。雪はしんしんと降ってる。いま開けたらとてつもなく寒いんだろうか。なんだかワクワクした。いつもなら窓を開けようとすると音を聞かれてすっかり怒られるのだが、その時は慎重におこなった。そしてバレなかった。こっそりと豪快に全開にし、すこしの間ぼんやりと雪景色を眺めていた。

「しんしんと」という表現がこれほどまで適したものはない。大粒のぼたん雪がえんえんと空から舞い降りてきて、ーそしてそれは限りなく、その空間はまるで時間と音を失ったようだった。あの光景を今でも忘れられない。

トラクターで除雪をするとおおよそ固まってくれるので、その上をそりで優雅に滑ったこともある。雪国ならではのふゆの良さを僕は知っている。

 

祖父に「まあちゃん、雪かき手伝ってけんにが??*1」そういわれて喜んで外へ出た。厚手のズボンの裾をしっかりと長靴の中に押し込んで、雪が簡単に入ってこないようにする。手渡されたシャベルは棒から先の掘る部分が透明で赤っぽくプラスチックの素材をしている。簡単に壊れてしまうんじゃないかって心配したけれど、案外硬く丈夫でいて軽いので「よく出来たもんだ」と少年の僕は感心する。

祖父の背を追って小屋裏の用水路の淵に立つ。よく澄んだその液体は雪解け水で、触ってみると限界値的な冷たさがした。そして僕はひどく後悔をする。さっきまではめていた手袋をまたして直して作業開始だ。

「絶対に落ちんなよ」と茶化す祖父を無視して黙々と畑に積もった雪を用水路の中に落とし込んでいく。雪かきに夢中になり祖父が消えたと思うと、ゴゴゴゴーっと背後から音がした。振り返えると祖父が運転する雪かき専用トラクターだった。

「だったら最初からそれでしろよ!」とその時の僕は思わなかった。ただそれに協力するように ーちっとも協力できていないのに、熱心に雪にシャベルを挿し、できるだけ多くすくい上げ遠心力の力を借りて水の中に落としていった。終わり際、祖父は微笑んで「おしょうしな」といった。それが人生で初めて聞いた祖父の「おしょうしな」だったのかもしれない。

小さいころは気づかなかったがよくよく考えてみると、祖父は世間一般で言うシャイな人だったのかもしれない。*2よく近所の人が家にやってきたとき帰り際に祖母がそう言っていたのでよく覚えている。とてもいい言葉だと思う。口に出してみると分かる。自然と柔らかい口調になるというかその音自体が温かい。

 

進んだか進んでいないかがわからない作業を一通り終え僕は祖父の横に座りリポビタンDを飲んだ。「まだちっちえから半分な」と言われきちんと半分だけ飲んだ。なんだか元気の出る味だった。さっきまでの疲れがみるみるうちに無くなっていき、またやろうと思えた。

祖父は出かけると言って重そうに腰を上げた。付いて行くとイオン系列のショッピングセンターだった。今では「イオン」に統一されてしまったが、その当時は「サティ」だった。その響きが好きだったのでとても愛着が湧いていて、それがひとたび「イオン」に飲み込まれてしまったことを知ったとき、僕は結構寂しくて悲しんだ。

着くと祖父は買い物をするという。沢山の肉を買い、野菜は必用最低限に、冬だろうと構わず沢山のアイスを買い込んだ。他にもたくさんなんでも祖父は買ってくれた。普段なら禁止、または個数が制限されてしまうお菓子でも、祖父は文句ひとつ言わなかった。文句を言われないとなると、逆に買いにくくなる。欲求というものはよくわからないもんだ、と少年の僕は常々思った。最後に、冷凍食品の棚の前に仁王立ちをしその戸を開け、「あじまん」を取り出した。*3

 

加筆修正

これは母も好きなものだったので僕もよく食べた。今ではめっきり食べなくなってしまったのでとても恋しい。会計を済ませ、外に出るとまた雪が降っていた。これじゃあさっきやった雪かきが...と思ったがそんなことで悩んではいけない。そんなことで悩んでいたら、そこでは一か月も暮らせないだろう。いつか僕はそこに住むんだ、と思っているこの心はきっとその時から持っていたに違いない。

 

 

 

僕は幸せなことに、祖父祖母がまだ四人も揃っている。しかし年々、僕が誕生日を迎えれば、その向こうで祖父祖母も年を召していく。自分も年を取ってきて二十歳を迎えるころそのようなことに気が付いた。当たり前なようで当たり前じゃない、思い浮かべてみる祖父祖母が、いつまでも、僕を幼いころお世話してきた頃の元気な健康体でいるわけじゃない。自然の摂理には逆らえないので、年を召すスピードをゆっくりにさせることもできない。効くか効かないか分からないが、なんだったら、僕が祖父祖母の分まで年を取ってあげたいと思ってしまう。それくらい祖父祖母には感謝しきれないことが山ほどある。これから生きているうちにまた何度会えるかわからない。本当にこれは、今しかできない、そして後悔のできないこと。今年の年末は、もちろん友達とも会いたいけれど、そっちの方面に出来るだけの時間を掛けて会いに行きたい気持ちの方が強い。

これからまた一層寒くなりそして雪の季節が始まります。どうか会える日まで、お元気でいて下さい。まだまだたくさん綴りたいことはあるけれど、またの機会にしようと思います。

*1:手伝ってくれないか

*2:※ この地方では「ありがとう」のことを「おしょうしな」という

*3:あじまん」とは、今川焼や大判焼きと言ったりするかもしれない。山形ではそれを「あじまん」と呼ぶ