何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

そのときに培われる感性は

その時にのみ養えるものだと思う。


ピーマンが苦いと思うのはなぜだろうか。基本的に、ピーマンには苦味が含まれているから、その本質自体を変えることはできない。けれども、だからと言って、ピーマン=苦い≒「嫌い」という構図になってしまうのがどうにも解せない。

かく言う自分は、苦いけどピーマンは食べれるよ!という、めんどくさい強がりなぼくをアピールしちゃう少年だった。なので結局、あまり好きにはなれなかった。でも今はすきだ。

ピーマンとパプリカは違う。パプリカは生で食すけれど、ピーマンを生で食すことはあまり多くない。きょうの昼食で、ピーマンをサラダにして食してみた。そこで、さきの冒頭に書いたことがふと思い浮かんだ。思った以上に生のピーマンは苦かった。







あの日みた夕焼けも、道端で目にとまった蝶々も、ゴーヤごときに思わず顔を渋らせてしまったような思い出も、それぞれがそれぞれ五感を通じ、刺激としてわたしたちは受容している。身体感覚を通して感じ取られた刺激と感覚は、案外じぶんの中に長く残り続ける。これはあの為末さんも言っていた。

やっぱり豊かな感性が無いと、受容できないいことが多いらしい。豊かな感性とは、という疑問も浮かんでくるが、ここでは割愛させてもらう。


一つひとつ、受容している感覚を一々思考して、すべて感じ取るのは難しい。でも、「あぁいまじぶんは夕焼けをみているなぁ、それを見て美しいと思っているなぁ」と認識し記憶に留めておくことは、きっと出来なくない。ほかの人には分からない、何かが豊かになるはずと思う。



そう。何のために、その手には、多機能型携帯電話が収められているというのか。もういちど考えなおして。