何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

問いを立てる能力



「何か質問はありますか?」


大勢いる集団のその中で手を挙げて問いをぶつけるのはとてもむずかしい。心理的ななんかが作用して、手を挙げるのを邪魔しようとする。勇気が無いだけなのかもしれないけれど、そういうわけでも無いと思う。


初めの授業の時、私の研究室の先生は「問いを立てること」を重要視して私たちに訴えかけた。また、メディアやマーケティングなどに詳しい産業論系の先生も同じようなことを言っていた。

「質問力を鍛えよう」


どちらも似通っていて、共通の概念があると判断できる。

「問い」とは何か。

例えばふと目に入った、「勉強は何のためにするのか(菊地良輔:民衆社)」という本のタイトル。これも立派な問いだと思う。もう一つ、「誰がテレビをつまらなくしたのか(立元幸治:PHP新書)」というタイトルも私たち(読者)に問いかけているし、訴えかけているようにも感じれる。今日の授業に出て来た「後悔しない生き方とはどのようなものか」というテーマも強く問うている。

実に、身近なところで沢山の問いが氾濫している。つまりは、私たちが「問うべきこと」はいくらでもあり余っているということ。決して躊躇ってはいけない、その時はその時しかない。隣に座っている彼、彼女も同じような問いを立てているかもしれない。大人数いる空間で、自分と質問したい相手との間において自分らのみ対話をすることができる権利を得ることが出来る。そしたら、得られるものも数倍になると思う。やはりそれを自分の手柄にしたい。手柄というと少々言葉が雑であるか、そのくらいに得られるものは自分にとっての、その価値が高く跳ね上がる。



五十肩とか四十肩とか引き起こさないうちに、上がる手はしっかりと挙げておこう。