何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

転んだ時

 転んだ時に、後方にいた車が素通りしていって、なんだかこの世って冷たいなって思いました。

 

 こんなに赤いんだ。自分でもびっくりしている。今日は満足にお風呂は入れないかなと心配をする。明日には横浜で開かれる大会のための移動だっていうのに、なんだかツイテいない。僕はもう8月を見ている。

 

 

 久しぶりに、からだの至るところに傷ができた。泣きたかった。ジンジンしてきた時に切り傷が出来ていることに気付いた。そして、血ってこんなに赤いんだと思った。貰ったクロスバイクの前輪も空気が抜けて乗れなくなった。首に引っ掛けていたイヤホンは真ん中から割けた。もちろん使い物にはならない。手に持ったままのiPhoneも地面にたたきつけられたけれど、傷がまた2つくらい増えた気がする。この間落とした時に出来た傷の数に比べたら、かわいいものだと思った。

 

 

 幸福感に包まれていたそばから、なんか凄いバチの当たり方だと思った。左親指の爪も折れて紫色に染まっていた。うーん、なんだかなぁ。

 

 

 きょう、愛読本の『キッチン』を手渡した。思いもよらないタイミングで自分から離れていった。でもなんか清々しかったので好しとする。何か受け取ってほしいと思う。前は仲が良かったオトモダチに2、3冊本を貸したことがある。が、帰ってこない。きっと捨てられたんだろう。信じられないけれど、それが真実だと勝手に思ってる。

 

 それは、父親が学生の頃読んだと思われる本。『三四郎:夏目漱石』だったか。表紙に、直に「~年.~月~日スタート」と、裏表紙にも「~年.~月~日終了」と書いてあったものだ。「~年」と書いてあるのにその期間は3日間だった。それに凄いロマンを感じていて、後々じっくり読もうと思っていたのにも拘らず、遂に僕の手元に帰ってくることは無かった。他は、『銀河鉄道の夜宮澤賢治』だった。短編で組み込まれている「双子の星」が僕はとても好きだった。この気持ちよさを分かってほしい、と思った末、追加して渡したのだけれど、どうにも裏目に出たようだった。とても残念でならないし許せない。

 

 

 「本」にも居場所があると思う。その本は、その本のいるべき場所がある。古書店で眠っている本は、それが合っているならそれでも良いけれど、出来るだけ多くの人の手に取ってもらいたいと自分は思う。それについては『夜は短し歩けよ乙女:森見登美彦』を読むと、すごいイイカンジなことが書いてあった気がする。どうであれ、本は、沢山の人に読んでもらう、沢山の目に触れるためにある。その本の運命は、最後まで誰にもわかるまいな、と感じるしそれを懐かしく思い起こした次第だ。

 

 

それにしても傷が痛む。神様にごめんなさいしておこうと思う。

でも、和らいできた。人間って強い。