何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

自分の中の「ベスト」を出す人は、、、

 

三つの晩考えました。

 

 

 

野球は、先が見えなくなりました。小学生の頃に見た夢、これは誰もが見るものです。「甲子園に出場してプロ野球選手になって大切な人を球場に招待してやって...」と言う様なもの。そんな夢を僕には叶えられっこない、そう感じたので辞めました。

 

小学校3年の12月に友達に誘われて説明会に足を運びました。バスケすることと悩んでいましたが、僕の周りの友達が釣られるように入部しようとするのと、バスケチームのコーチが激コワだったために、流れで入部を決意しました。楽しくてしょうがなかった小学校中・高学年。宿題よりも野球。ランドセルを投げ出して友達とキャッチボール。ナイター設備の整った市営球場が近くにありました。小学校の思い出、と称してか監督が企画してくれたナイター試合。「親にはちゃんと話すんだぞ」と念を押されましたが、「そんなの行かせられません」と母親に止められるのが怖くて、黙って試合に行きました。帰ったらたんまりと怒られた思い出があります。当然のことでした。

 

遊びながらも野球は5年間しっかりと続けました。そして、真正面から陸上競技に向き合ってきて6年目な「いま」があります。二つのスポーツに取り組んできました。何か得られたことはあったでしょうか。野球から陸上競技に転向していったのも、そこでは勝てるからかもしれないと思ったから、が大きな理由です。でもそれが、大学へ入ってからは「先が見える、まだまだ先が見えるから続ける」に変わっていきました。色々なことを学びます、人生の先輩たちの輝かしい結果や功績の目の当たりにします。凄いなぁと思います。これも情報化社会が進んだが故のことです。なんでも、本や文献を取らずとも、重要なことは目にすることが出来るからです。もっとも、ほんとうに大事なことは、本や文献などでしか目に出来ないと思ってはいますが。

 

 

僕の周りには、優秀な人がたくさんいます。どうしてそんなところまで?と首をかしげてしまうほどです。優秀と思われるティーチャーやコーチもたくさんいます。「スポーツ健康心理学」という授業の講師が、「日本におけるスポーツでは「勝ち」「負け」を楽しむという風潮が薄れている。負けたやつは人としてもアウトだと思われる風潮がある。指導者はスポーツの教育的価値を考えて、負け方を指導・教育できないといけない」みたいなことを投げかけていたような気がします。(しっかりとメモ取っていた)この講義は「選考会」前のことでしたが、メモとってたものをそれをノートに改めて映している時ずっと胸で何かがズキズキしているようでした。「選考会」が終わってから、改めてノートを見返している時にもふと目にすると、何かがズキズキするようでした。それは、「苦しい」に近い様な感情、感じでした。

 

「負けたやつは人としてもアウトか、、」というのは、ハロー効果みたいなものでしょうか。身体表現論というダンス理論についての講義でも、「成功体験または競技成績の向上」と「人間性の向上」を並べたとき、どっちから始まりどっちへ向かうか?という問いを投げかけました。講師は、競技成績向上→人間性向上かな?と独自の見解を示しました。僕にはどちらもわかるような気がします。上のことにすこしは共通するかなと思い、提示をしました。

 ハロー効果

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自己ベストや大学生ベストを出す人が周りにはたくさんいます。僕らの競技部で自己ベスト達成者は、部全体で集まるときに前に一斉に出て逐一報告をする、というのが慣習になっています。ですがまだ一度も前に出てその報告が出来ていません。凄いですね‼と、羨望の眼差しを向けたまま称賛することしかできていません。たった一度、100mの自己ベストを昨秋に出せたのですが、その日後の全体集合が、僕が遠征をしている日と重なってしまったために報告できず仕舞いのままです。

 

僕がよくしていただいている仲の良い先輩が、高3?ぶりに自己ベストを出しました。僕は選考レースで負けて悔しさがいっぱいだったのですが、その先輩の喜びを一緒になって分かち合っていたら、どっかへ飛んで行ってしまいました。その先輩はアキレス腱を入学前に切っていて痛めていました。いまでも痛むようです。1年次は試合に出られなかったとか。でも諦めなかった。たくさん一緒に冬季を走ってきた、また、それまでたくさんお世話になってきたという事を考えると、負けたどころの問題ではありませんでした。何故か、涙が出るくらい、本当にうれしかった。「自分のことを棚に上げて何を言うか」と怒られるかもしれません。でも、そこに「しあわせ」であったり「歓び」であったりを感じれることが嬉しいです。はじめてな感情に、いまはただただ陸上競技をやってよかったと思えるのも事実です。本能的な闘争心とでも言いましょうか、悔しさがあって、それを糧に次は負けないぞと言わんばかりの闘志を燃やすこと。もしかしたら自分にはそれが「無い」。練習で勝てたらそこそこ満足しているのです。いい記録出ることに結びつけばいいなと希望するしかできません。でもそこから、その自分を否定するのではなく、いいところを見つけてやっていくほかない。競技者はいつだって孤独です。

 

 

先月かな、元日本代表で現在も代表のコーチを務めている柔道家のインタビュー記事が新聞のスポーツ紙面に載せられていました。「負けから得られるものは何もない」という見出しから始められていました。言いくるめられるように、理解はできましたがどうも腑には落ちませんでした。だからなんだろう、と。

これもまた大学1年次の教育心理学で教わったことですが、気質やパーソナリティなどが、競走場面でも大きくかかわっているんだなと近頃はよく思います。負ける先輩がなにもかも教えることは難しいかもしれないけれど、決して舐められないように、正々堂々と、先輩らしく、伝えられることは日々のコミュニケーションから伝えていってあげたいと思います。

何もかも始まりは教育からはじまります。

教育の思想について学びたい。