読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あらいの小話、

フィクションか何かだと思ってください、

2015.3.11

3.11

トピック「被災」について

 

つくばでは、黙祷の時間にサイレンを聞けない。 

だから、「せめてもの行い」というわけで、そちらの方向にからだを向ける。

 



なぜ書くのか?

文字として、残しておきたいから。今の僕ならいくらでも連ねられる。今の僕に出来ることはこれくらいしかない、なので御堪忍を。

 

 



なにがそうさせて、あのような大震災を引き起こしたのかを、ずっと考えている。メディアや研究者にとって、『あの日』の出来事は、既に格好の餌食になりつつある。取り上げれば、だれかは見てくれるだろう。そこにはどんな信念があるのか。

 

 


けれど、どこにも悪気はない。

風化を感じ、人は嘆く。実際に、復興が進んでいないと感じられるのも確かで、否定できない。しかし、まだどこかで、避難所生活は続けられている。


仮設住宅も多数存在している。一般人からすると考えられないだろう。僕も、考えられない、同じくその他多数とおなじく一般人化しているんだと思う。多様なやり方についていけていないのか、疎いのか、ただ眼をそらしてばかりなのか分からないけれど、人はあの「震災」に対して不満を持ち続けるらしい。その構造は一体どう構築されているのか。  

 


進む風化と深まる悲哀と感じる時、深いため息をつく。 そろそろ前を向いて頑張らなければいけない、と思うのは皆同じ、でも皆同じ方向を向いているようで、実はばらばらだったりする。悲しんでばかりいてはいけないよねと思うのも、つい一分前の出来事。



いずれ、3.11をおぼえていても、「それって(西暦)何年だっけ?」みたいな会話が飛び交うのだろう。教科書に乗るとなったなら、暗記ものの対象まっしぐらだ。

 

 

現地はさほど遠くないのに、遠く感じてしまう。講義には、頻りと「震災関連」が扱われる。被災して家を失った、家族を失った、途方に暮れる日々に、精神を患ってしまった人たちがコミュニティを形成し集う。その現場に赴きケアのため数日間寄り添って、運動療法を試みる。



でもそれも、研究の一環。

 


震災関連について内容が取り上げられたって、皆、話をきいていない。殆どどうでもいいことだと思っている。他人事だと思っている。そっぽを向き、目を逸らし、隣のダレかと御喋りに明け暮れる。僕がいちばんに風化を感じる瞬間はこんな時。でも彼らに悪気はない。そんなこと言ったって自分も同じかもしれない。テストで点数さえを取れればいいと思っている。自分もまた、それらと同じ類に振り分けられるんだろう。


悪な空間では、個人が集団を形成するのではない。

その場の空気、ないしは集団が不安定で移ろぐ個人を形成させる。

 

 

 

 

今日ばかりは、悲しみを呼び起こして書き連ねようと思っていなかった。すこしでも、建設的な、あかるい意見を書いて置いておきたかった。あまりヒステリックになり過ぎても、何事も進まない。それは  この4年で学んだこと。うむ、たったこれしき。 



いまの時代は便利だ。誰が震災に関してどんなことを思っているのかを、知ろうと思ったら、いくらでもどんな方法でも知ることが出来る。情報が溢れかえっている。すごい、すばらしい、ネット社会は偉大であり文化だ。この時代に生まれてこれて本当に良かった。生きていてよかった。あんな経験をするのも、結果としてよかったのだ。



いまは、そう、思うしかない。

  

 

 

 

帰省するとき常に思うこと。帰れるところがある、それはしあわせなこと。震災がきっかけで何か変わったことがあっただろうか?僕は沢山ある。大きく言えば、生きる糧が出来た。良くも悪くも、私たちになにかもたらした震災。その後のやり過ごし方、未来へ残す手立て、賛否両論あるけど、それぞれでいいと思う。たくさんの議論をして、物議をかもして、後世に残したい。

 

僕はしっかりと生きている。脆弱で、みっともないきれいごとはやめよう、絆は、なんだっていいじゃないか。生きる資格があるのなら、ただ生きようや。

 

 

 


 3/14・15に宮城県にボランティアのため出向きます。つくばの人と震災に向き合うこと、僕が大学に来てからいちばんにしたかったことです。