何を書くか、何を書かないか。

70パーセントはフィクションだと思ってください。

流行と消費のジレンマ

アップル・ミュージックに魂を売って*1から、僕のプライベート・タイムのクオリティは格段と上がった。理由といえばたくさん聴ける。それだけかもしれない。でもまず間違いなく他社のものとは違う。アワやスポティファイなんかも期間限定で使ってみたけれど、しっくりこなかった(ユーチューブだって利用するが、それはまた別の話だ)。理由を明確な言葉にしようとすると難しいが、アイフォーンを使っているからには継続して使わせるような「便利さ」があると思う*2。その「便利さ」にどっぷり浸かり、3ヶ月毎日欠かさず享受し続けた。確かにそれなりのバッテリとデータ通信料は食われるが、それでもなお就業中はほとんど使わないため問題なかった。友達と連絡を取ったり、SNSをチェックする必要もなくなった。

懐かしい曲や見知らぬ曲、前々から知っていたけれどちゃんと聴くことができなかった曲と触れ合った。いい気分にさせたし、やるせない気分にもさせた。僕は日本人であるけれど、御多分に洩れず海の向こう側のメロディをよく好んで聴く。これは前にも言ったように、親の影響だと思っている。ある意味でこれは、僕に先天的に備わった物事なのだ。熱中する曲はしっかり口ずさめるようになりたくて歌詞をスクロールする。歌詞をフィジカルに覚えようとする。すればするほどその道すがらハマっていく。出会った瞬間そこにカッチリとコミットされる。「歌詞が共感できて~」とかはほとんどない(大体そんなものは結果論だ)。その時は離れられなくなる。

歌詞は綺麗にスクロールされない。行ったり来たりする。正確な数はカウントできないけど、今これにハマってるぞ!と実感できる曲はその時々タイミングで1、2曲存在する。しかし、それはある一定のスパンで忘れ去られる。いつの間にか僕は気がついた。いつまでもずっとずっと聴いていたい・・・と思うのと裏腹に、指で、耳で、肌で密着し触れ合った曲との別れが、深く関われば関わるほど唐突に訪れることを知る。これが僕にとって「便利さ」ゆえの流行と消費のジレンマである。またこれはとても悲しくてやるせなくて辛く、大きな痛みを伴う。

 

 

ある朝僕は起きる。いつものように顔を洗い、鏡に向かって歯をブラッシングする。スーツに身を包み、3種類の靴から1つ選んでそこに足を入れる。最近はめっきり冷えるようになったので上着のポケットに手を突っ込む。突っ込むと同時に、絡まったイヤフォンをほぐして片方ずつ耳にはめ込む。左を確認してから右だ。しっかりとはまったことを確認して、音楽を選ぶ。昨日まで聞いていた(あれだけ明日も明後日も明々後日も聴こうと決意した)音楽がどれだかわからなくなる。仕方なく僕はシャッフルのボタンを押し、仕方なくカラダに馴染ませる。アーティストが何を言っているかわからなくて良い。タイトルとメロディから、ただ想像する。アーティストがどんな顔、体型をしているのか思い浮かべる。ページを繰るように次送りにし、たまたまそのうち昨日まで熱中するほど聴いていた音楽に出くわす。信号のない交差点の、死角がある二方向からふたりがはち合わせになるように。(ああ君か、今日も会ったね。それじゃあまたいつか会おう)と言って次に送る。そうしたらもう出会うことはない。相当時間が経たないことには、改めて面と向かって出会うことはない。あの時痛いほど抱いていた、得ていた「熱」や「高揚感」は、もうそこにはない。あれだけ「この曲について思うこと」を書こうと思っていた「滾り」もない。それらは不十分に、中途半端に清算され、過去のものになった。

 

 

 

でも僕の手元には、そんな流行や消費のジレンマにも負けず残存している一曲がある。『ビューティフル・ナウ』*3 だ。

今年の春に、彼女の車で軽井沢へ行った。そこではたくさん喧嘩をし、たくさんビールとコーヒーを飲み、また痛いほどの寒さに凍えた。その帰り道、疲れ切った二人の耳元に流れてきたこの歌のクライマックスの瞬間のメロディとイメージを僕はずっと忘れない、と思う。「ようやく茨城か・・・」という時だった。田園風景がひろがる県道では大きなトラックがすごい量の砂けむりをまきあげて走っていた。

 

 

*1:契約して

*2:コネクトのしやすさ

*3:手厳しい規制で載せられないのが悔しい